万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その395)―三重県津市 三重県護国神社―防人の歌(3)

●歌は、「天地の神を祈りてさつ矢貫き筑紫の島をさして行く我れは」である。

 

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三重県護国神社万葉歌碑(大田部荒耳)

●歌碑は、三重県津市 三重県護国神社、拝殿に向かって右脇道拝殿から3番目の灯篭である。

 

●歌をみていこう。

 

◆阿米都知乃 可美乎伊乃里弖 佐都夜奴伎 都久之乃之麻乎 佐之弖伊久和例波

               (大田部荒耳 巻二十 四三七四)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)の神を祈(いの)りてさつ矢(や)貫(ぬ)き筑紫(つくし)の島をさして行(い)く我れは

 

(訳)天地の神々に無事を祈って、靫(ゆぎ)を背負い、筑紫の島を目指してはるばる行くのだ。おれは(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)さつや【猟矢/幸矢】 の解説:狩りに用いる矢。さちや。(goo辞書)

 

左注は、「右一首火長大田部荒耳」<右の一首は火長(くわちゃう)大田部荒耳 (おほたべのあらみみ)>である。

(注)火長(読み:クワチヤウ):古代の兵制で、兵士10人(一火)の長。(コトバンク デジタル大辞泉

 

この歌は、戦時中の翼賛運動のひとつとして、愛国の精神が表現されたとする名歌百首を選んだとされる「愛国百人一首」の一つであるという。

 

 同様に、戦時中「滅私奉公」の見本のように持ち上げられた歌が、この歌の前歌である。

 

◆礽布与利波 可敝里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊埿多都和例波

               (今奉部与曽布 巻二十 四三七三)

 

≪書き下し≫今日(けふ)よりはかへり見なくて大君(おほきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我は

 

(訳)今日という今日からは後ろなど振り返ったりすることなく、大君の醜(しこ)の御楯として出立していくのだ、おれは。(同上)

(注)しこ【醜】名詞:頑強なもの。醜悪なもの。▽多く、憎みののしっていう。

※参考「しこ女(め)」「しこ男(お)」「しこほととぎす」などのように直接体言に付いたり、「しこつ翁(おきな)」「しこの御楯(みたて)」などのように格助詞「つ」「の」を添えた形で体言を修飾するだけなので、接頭語にきわめて近い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首火長今奉部与曽布」<右の一首は火長(くわちゃう)今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)>である。

 

四三七三から四三八三歌の十一首の歌群に関する左注は、「二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首 但拙劣歌者不取載之」<二月の十四日、下野(しもつけ)の国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)正六位上田口朝臣大戸(たぐちのあそみおほへ)進(たてまつ)る歌の数十八首。 ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>である。

 

四三七三ならびに四三七四歌は、防人の使命感、防人としての言立て(決意、誓い)といった歌であるが、残りはむしろ「わたくしごと」のうたである。冒頭の二首が全体を規制する位置づけにあるのではなく、すなわち、防人の歌の本質は、元来「言立て」にあるのではなく、悲別の歌として見ることができるのである。ここにも万葉集万葉集たる所以が隠れているように思える。

 

そのことは、巻二十のおける、家持の歌からもうかがえるのである。題詞のみであるが取り上げて見る。

 四三三一から四三三三歌の題詞は、「追痛防人悲別之心作歌一首幷短歌」<追ひて、防人が悲別の心を痛みて作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。左注は、「右二月八日兵部少輔大伴宿祢家持」<右は、二月の八日、兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 四三六〇から四三六二歌の題詞は、「陳私拙懐一首幷短歌」<私(ひそ)かなる拙懐(せつくうい)を陳(の)ぶる一首幷(あは)せて短歌>である。左注は、「右二月十三日兵部少輔大伴宿祢家持」<右は、二月の十三日、兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 四三九八から四四〇〇歌の題詞は、「為防人情陳思作歌一首幷短歌」<防人(さきもり)が情(こころ)のために思ひを陳(の)べて作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。左注は、「右十九日兵部少輔大伴宿祢家持作之」<右は十九日、兵部少輔大伴宿禰家持作る>である。

 四四〇八から四四一二歌の題詞は、「陳防人悲別之情歌一首幷短歌」<防人が悲別の情(こころ)を陳(の)ぶる歌一首幷(あは)せて短歌>である。左注は、「二月二十三日兵部少輔大伴宿祢家持」<二月の二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 四三六〇から四三六二歌は、難波の京をほめたたえて作った「陳私拙懐一首幷短歌」ものであり、防人の言立て等には一切触れられていない。他の歌群は、「防人悲別之心」「為防人情陳思」「防人悲別之情」と、防人達の「わたくしごとである悲別の心」をどちらかと言えば、代弁する形で詠っているのである。

 大津京に都を遷すという、いわば背水の陣を国家的に行い、防人制度をしいてきたのであるが、万葉集ではそこまで読み取れないところも万葉集万葉集たる所以のひとつであるように思える。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「goo辞書」

★「コトバンク デジタル大辞泉