●歌は、どちらも「あぢかまの塩津をさして漕ぐ舟の名は告りてしを逢はずあらめやも」である。
●歌碑は、長浜市西浅井町 塩津北口バス停近く(その401)と同市西浅井町塩津浜 鹽津神社(その402)にある。
●歌をみていこう。
◆味鎌之 塩津乎射而 水手船之 名者謂手師乎 不相将有八方
(作者未詳 巻十一 二七四七)
≪書き下し≫あぢかまの塩津(しほつ)をさして漕ぐ舟の名は告(の)りてしを逢はずあらめやも
(訳)あじかまの塩津を目指して漕ぎ進む舟が大声で名を告げるように、はっきりと私の名はうち明けたのだもの。逢って下さらないなんていうことがあるはずはない。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)あぢかまの:未詳。塩津の枕詞か。
(注)塩津:琵琶湖北東端の港。北陸道の入り口。
(注)上三句は「名は告(の)りてし」を起こす序。出航に際して大声で舟の名を告げる慣習によるものか。この歌は、部立「寄物陳思」の歌群の一つである。
401の歌碑は、この歌と、紫式部の歌「知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道は からきものぞと」が並記されている。
紫式部の歌については、「新近江名所圖会 第64回 紫式部も越えた深坂古道」(投稿日: 2011年8月24日 作成者: 滋賀県文化財保護協会)に、解説が次のように記されている。「紫式部は長徳2年(996)9月に父の藤原為時が越前国守赴任時に随行しました。紫式部が塩津山を越えるとき、輿を担ぐ男たちの「やはりこの道はいつ通っても難儀だな」との一言を聞いて詠った歌です。『知りぬらむ 往き来にならす 塩津山 世に経る道は からきものぞと』(お前たちこれで分かったでしょう。通いなれたこの道もつらいけど、世の中の道はもっと厳しいものですよ。)自分で歩きもせず批評をする20歳代の小生粋な紫式部の性格がよくわかる歌です。」
▼須賀神社➡塩津北口バス停➡鹽津神社
須賀神社から県道513号線を琵琶湖沿いに北上、国道303号線を走る。塩津交差点を右折してしばらく行くとバス停「塩津北口」がある。コンビニの大きな駐車場の南端にバス停と裾広がりの灯篭の後ろ側に歌碑があった。
バス停からほぼ南下、約10km強辺りで、湖岸近くを左折、川沿いに進むと「鹽津神社」が見えて来た。
万葉歌碑は、鳥居に向かって右側、鳥居と「鹽津神社名碑」の間に建てられた四角柱である。
塩津神社については、「塩津浜は平安の頃より、北陸・越後から運ばれてくる海産物、特に塩の輸送の重要な中継地でした。塩津神社は祭神を塩土老翁(しおつちのおぢ)とし、近くの志波谷では塩水が湧き、村人が製塩を行っていたと伝わっています。」と記されている。「長浜・米原を楽しむ旅/観光情報―長浜・米原・奥びわ湖―」(長浜観光協会・米原観光協会・北びわこふるさと観光公社HP)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「新近江名所圖会 第64回 紫式部も越えた深坂古道」(投稿日: 2011年8月24日 作成者: 滋賀県文化財保護協会)
★「長浜・米原を楽しむ旅/観光情報―長浜・米原・奥びわ湖―」(長浜観光協会・米原観光協会・北びわこふるさと観光公社HP)