万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その407)―滋賀県米原市能登瀬 能登瀬会館―

●歌は、「高湍にある能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも」である。

 

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滋賀県米原市能登瀬 能登瀬会館万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、滋賀県米原市能登瀬 能登瀬会館にある。

 ※歌碑には、「波多朝臣小足」とあるが、「萬葉集」(鶴 久・森山 隆 編 桜楓社)ならびに「万葉集 三」(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫)を参考に、「作者未詳」とした。

 

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能登瀬会館

●歌をみていこう。

 

◆高湍尓有 能登瀬乃川之 後将合 妹者吾者 今尓不有十万

       (作者未詳 巻十二 三〇一八)      

 

≪書き下し≫高湍(たかせ)にある能登瀬(のとせ)の川の後(のち)も逢はむ妹(いも)には我(わ)れは今にあらずとも

 

(訳)高湍(たかせ)の能登瀬川の名のように、のちでもよいから逢おう。あの子には、私はきっと・・・。今ではなくても。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序で類音で「後(のち)」を起こす。(伊藤脚注)

(注)高湍、能登瀬:所在未詳。(伊藤脚注)

 

 注釈にもあるように、「高湍」、「能登瀬」は所在未詳とされている。

 息長川は今の天野川と言われている。能登瀬付近も流れていることを考えると、地域的に能登瀬川と呼ばれていたとしても不思議ではない。

 能登瀬会館の付近には、息長郵便局や米原市立息長小学校といった「息長」の地名が残っている。また、南東300m位の所には「山津照神社」がある。この神社については、「滋賀・びわ湖観光情報」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)に次のように記されている。

「老樹に囲まれた落ち着いた雰囲気の神社で、奈良時代息長氏祖神を祀って創建されたといわれます。祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)。鎌倉中期に後鳥羽天皇が宝剣を奉納したと伝えられています。

 参道拡張工事で発見された前方後円墳の山津照神社古墳は、息長氏一族で神功皇后(じんぐうこうごう)の父、息長宿禰王(おきながすくねおう)の墳墓といわれ、横穴式石室から鏡・埴輪・金銅製具・馬具・刀など多くの副葬品が発掘され、それらは貴重な文化財として宝物庫に納められています。また、5月5日の祭礼には「武家奴振り」が行なわれています。」とある。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)については、「古代,仲哀天皇の皇后とされる人。名はオキナガタラシヒメノミコト。父は開化天皇の曾孫,母は新羅から但馬に来住したというアメノヒボコ天之日矛)の玄孫タカヌカヒメ。いわゆる三韓征伐物語の中心人物。「記紀」によると仲哀天皇熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮(→香椎宮)で急死すると,同行の皇后は妊娠中にもかかわらず,武内宿禰とはかり新羅に遠征,新羅降伏後筑紫に帰ってホンダワケノミコト(応神天皇)を産んだという。この遠征の結果,百済高句麗も日本に帰服した。皇后は大和に戻ってほかの王らを討ち,応神天皇を皇太子に立てて,約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったといわれる。また『日本書紀』は皇后を暗に『魏志倭人伝』にみえる女王卑弥呼に擬している。陵墓は奈良県奈良市の狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのへのみささぎ)。」と記されている。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

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神功皇后

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奈良市山陵町神功皇后

 神功皇后は、万葉集では、息長足日女命(おきながたらしひめのみこと)として、巻五 八一三の序「(前略)古老相伝(あひつた)へて『往昔(いにしへ)、息長足日女命、新羅(しらき)の国を征討(せいたう)したまふ時に、(後略)』」に名前が出ている。また、八一三歌の中にも「多良志比咩(たらしひめ)」として詠まれている。同様に、巻五 八六九歌には「多良志比売(たらしひめ)」、巻十五 三六八五歌に「多良思比売(たらしひめ)」として詠まれている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「滋賀・びわ湖観光情報」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」