●歌は、「さざれ波磯越道なる能登瀬川音のさやけさたぎつ瀬ごとに」である。
●歌をみていこう。
◆小浪 磯越道有 能登湍河 音之清左 多藝通瀬毎尓
(波多小足 巻三 三一四)
≪書き下し≫さざれ波磯(いそ)越道(こしぢ)なる能登瀬川(のとせがは)音(おと)のさやけさたぎつ瀬ごとに
(訳)小波(さざれ波)が川岸の岩を越すというではないが、越(こし)の国へ行く道の能登瀬川、この川の音のなんとさやかなことよ。激(たぎ)ち流れる川瀬ごとに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)越国(読み)こしのくに:「高志」とも書く。奈良時代の越前,加賀,能登,越中,越後,佐渡および出羽の南部の総称。大和朝廷と蝦夷との接触地であったため,蝦夷との抗争が続き,大化3 (647) 年には渟足柵 (ぬたりのき) が設けられた。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
題詞は、「波多朝臣小足歌一首」<波多朝臣小足(はたのあそみをたり)が歌一首>である。
万葉集には、波多朝臣小足(伝未詳)の歌はこの一首だけである。
この万葉歌碑は、県道246号線をあらかじめストリートヴューを行っていたので、所在地のイメージはつかめていた。天野川を右手方向に246号線を進む。天野川に注ぐ支流の橋の所で北東方向にほぼ直角に曲がる。そこから100mほどの行った右手に「ここは能登瀬です」と書かれた説明案内板がある。その近くに万葉歌碑がある。説明案内板は、万葉歌碑については触れられていない。洪水で悩まされている里人のために百如という人が石橋が架けたそうで、その慈悲に感謝し保存するためにここに移転してきたと書かれている。
蛭子神社、能登瀬会館、そしてここの歌碑も長方形の花崗岩作りになっている。
万葉集巻三において、この歌が三一四歌として収録されているが、ここの位置づけは理解しがたいのである。題詞だけみてみる。
◆三〇〇、三〇一歌の題詞、「長屋王駐馬寧楽作歌二首」<長屋王(ながやのおほきみ)、馬を奈良山に駐(と)めて作る歌二首>
◆三〇二歌の題詞、「中納言安倍廣庭御歌一首」<中納言安倍廣庭卿(あへのひろにはのまえつきみ)が歌一首>
◆三〇三、三〇四歌の題詞、「柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首」<柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下(くだ)る時に、海道(うみつぢ)にして作る歌二首>
◆三〇五歌の題詞、「高市連黒人近江舊都歌一首」<高市連黒人が近江の旧(ふる)き都の歌一首>
◆三〇六歌の題詞、「幸伊勢國之時安貴王作歌一首」<伊勢の国の幸(いでま)す時に、安貴王(あきのおほきみ)が作る歌一首>
◆三〇七~三〇八歌の題詞、「博通法師往伊國見三穂石室作歌三首」<博通法師(はくつうほふし)紀伊の国に往き、三穂(みほ)の石室(いはや)を見て作る歌三首>
◆三一〇歌の題詞、「門部王詠東市之樹作歌一首」<門部王(かどへのおほきみ)、東(ひむがし)の市(いち)の樹(き)をめて作る歌一首>
◆三一一歌の題詞、「▼作村主益人従豊前國上京時作歌一首」<▼作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)、豊前国(とよのみちのくに)より京に上る時に作る歌一首> ※ ▼は「土へんの者」
◆三一二歌の題詞、「式部卿藤原宇合卿被使改造難波堵之時作歌一首」<式部卿(しきぶのきやう)藤原宇合卿(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、難波の京を改め造らしめらゆる時に作る歌一首>
◆三一三歌の題詞、「土理宣令歌一首」<土理宣令が(とりのせんりゃう)歌一首
◆三一四歌の題詞、「波多朝臣小足歌一首」<波多朝臣小足(はたのあそみをたり)が歌一首>
◆三一五、三一六歌の題詞、「暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌一首幷短歌」<暮春の月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首幷(あは)せて短歌>
◆三一七、三一八歌の題詞、「山辺宿祢赤人望不盡山歌一首幷短歌」<山辺宿禰赤人、富士(ふじ)の山を望(み)る歌一首幷(あは)せて短歌>
ザ~と眺めても、地理的な一貫性や、時系列的なものも欠いており、能登瀬川の歌の位置づけが消化不良のままである。今後の課題となろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」