万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その423,424)―三重県四日市市松原町 聖武天皇社―万葉集 巻六 一〇三〇

―その423、424―

●歌は、どちらも「妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る」である。

 

●歌碑は、三重県四日市市松原町 聖武天皇社にある。

 

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聖武天皇社万葉歌碑(佐々木信綱揮毫)

その423の歌碑は、聖武天皇社参道右手にある大きな碑である。この地ゆかりの歌人佐々木信綱の揮毫によるものである。

 

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聖武天皇社万葉歌碑(本殿横 万葉仮名)

その424の歌碑は、本殿横の小さな鳥居(聖武天皇社)の後ろにある、古びた歌碑である。

 

●歌をみていこう。

 

◆妹尓戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡

              (聖武天皇 巻六 一〇三〇)

 

≪書き下し≫妹(いも)に恋ひ吾(あが)の松原見わたせば潮干(しほひ)の潟(かた)に鶴(たづ)鳴き渡る

 

(訳)あの子に恋い焦がれて逢える日を我(あ)が待つという吾(あが)の松原、この松原を見わたすと、潮が引いた干潟に向かって、鶴が鳴き渡っている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いもにこひ【妹に恋ひ】( 枕詞 ):妹に恋い「我(あ)が待つ」の意から、地名「吾(あが)の松原」にかかる。 (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

題詞は、「天皇御製歌一首」<天皇(すめらみこと)の御製歌一首>である。

 

左注は、「右一首今案 吾松原在三重郡 相去河口行宮遠矣 若疑御在朝明行宮之時所製御歌 傳者誤之歟」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、吾の松原は三重(みへ)の郡(こほり)にあり。河口(かはぐち)の行宮(かりみや)を相去ること遠し。けだし朝明(あさけ)の行宮に御在(いま)す時に製(つく)らす御歌なるを、伝ふる者誤(あやま)れるか。>である。

 

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聖武天皇

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「万葉史跡と聖武天皇社」説明案内板

 

 聖武天皇社の前の松原公園にある、「四日市市指定史跡『万葉史跡と聖武天皇社』」説明案内板には、「『続日本紀』によると、天平十二年(740)の藤原広嗣の乱の際、聖武天皇は伊勢に行幸しました。この時に朝明郡衙(朝明郡の役所)に泊まったといいます。万葉集には『妹に恋い吾がの松原見渡せば潮干の潟に鶴鳴き渡る』(いとしい人に焦がれて自分が逢うことを待っているという名の松原を見渡すと、潮の引いた遠浅の海に鶴が鳴いてずっと飛んでいくことだ)という天皇の御製歌があり、この松原をこの聖武天皇社付近と解釈する説があります。

 伝承では天皇社は、朝明頓宮(とんぐう)の跡に鎌倉時代の安貞元年(1227)に創建されたと伝えられます。境内には、天皇の御歌を刻んだ歌碑が二つ立っています。そのうちのひとつは、鈴鹿の石薬師で幼少期を過ごした歌人佐々木信綱の揮毫(きごう)によるものです。」と書かれている。

 

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「松原公園由来記」の碑

 松原公園には、由来記が書かれた碑がある。「松原」は聖武天皇の歌に詠われた「吾(あが)の松原」である、と記されている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「四日市市指定史跡『万葉史跡と聖武天皇社』」説明案内板」

★「松原公園由来記」