●歌は、「後れにし人を思はく思泥の崎木綿取り垂でて幸くとぞ思ふ」である。
●歌をみていこう。
◆後尓之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 好往跡其念
(丹比屋主真人 巻六 一〇三一)
≪書き下し≫後(おく)れにし人を思はく四泥(しで)の崎(さき)木綿(ゆふ)取り垂(し)でて、幸(さき)くとぞ思ふ
(訳)あとに残っている人を思っては、思泥の崎の名のように、木綿(ゆふ)を取り垂(し)でて、無事を神に祈っている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)しづ 【垂づ】他動詞:垂らす。垂れ下げる。(学研)
題詞は、「丹比屋主真人歌一首」<丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が歌一首>である。
左注は、「右案此歌者不有此行之作乎 所以然言 勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉 何有詠思泥埼作歌哉」<右は、案(かむが)ふるに、この歌はこの行(たび)の作にあらじか。 しか言ふ故(ゆゑ)は、大夫(まへつきみ)に勅(みことのり)して河口(かはぐち)行宮(かりみや)より京に還(かへ)し、従駕(おほみとも)せしむることなし。いかにしてか思泥(しで)の埼にして作る歌を詠(よ)むことあらむ。
丹比屋主真人の歌は、万葉集にはもう一首収録されている。こちらもみてみよう。
◆難波邊尓 人之行礼波 送居而 春菜摘兒乎 見之悲也
(丹比屋主真人 巻八 一四四二)
≪書き下し≫難波辺(なにはへ)に人の行ければ後(おく)れ居(ゐ)て春菜(はるな)摘(つ)む子を見るが悲しさ
(訳)難波の方へ夫が出かけているので、ひとりあとに残って春菜を摘んでいるあの子、その子を見ると、いとおしくてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「大蔵少輔丹比屋主真人歌一首」<大蔵少輔(おほくらのせうふ)丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が歌一首>である。
一〇三一歌の「後尓之」、一四四二歌の「送居而」と、何らかの形で後に残っている人を思いやっての歌に、なにかしら丹比屋主真人の人柄がにじみ出ている。
三重県四日市市ならびに松阪市近隣の万葉歌碑めぐりは、①山辺の御井②聖武天皇社③志氐神社④阿弥陀寺⑤斎王の森である。
鈴鹿市の山辺の御井から四日市市の聖武天皇社まで約30分のドライブ、聖武天皇社から志氐(しで)神社までは約15分である。
同神社のあとは、松阪市の阿弥陀寺である。伊勢自動車道を通って1時間強、さらに明和町の斎王の森までは約15分である。
志氐神社の駐車場に車を止め、参道を歩くと、小高い築山があり、その頂に歌碑が建てられていた。何かの影響で歌碑が倒れたのか、上部に破損傷が残されている。
左手に社務所があり、拝殿横に「志氐神社古墳」がある。
四日市市HP「志氐神社古墳」によると、「市内に残る唯一の前方後円墳で、4世紀に築造されました。『伊勢名勝志』によると額田連(ぬかたのむらじ)の祖、意富伊我都命(おういがつのみこと)の陵墓と記されています。古墳は、海蔵川と米洗川に挟まれ、西から東に曲折しながら延びる低い丘陵部に位置します。墳丘は、丘陵の東側で南北に低く延びる標高10mほどの台地の東端に、主軸を南北方向にとって築造されています。明治時代に、神社の境内拡張と社務所造営によって前方部が削られ、現在では後円部と北、西側の周濠の一部が残っています。後円部は、東側と南側が道路や建物などによって削り取られていますが、規模は直径30m、高さは5.3mあります。墳丘には葺石があったようです。周濠は、幅4.5m、深さ約2.0mほどあります。後円部の墳頂は、嘉永五年(1852)に発掘され、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、車輪石、勾玉、管玉、小玉が出土しました。」とある。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「志氐神社古墳」(四日市市HP)