●歌は、「百済野の萩の古枝に春待つと居りしうぐひす鳴きにけむかも」である。
●歌をみていこう。
◆百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之鸎 鳴尓鶏鵡鴨
(山部赤人 巻八 一四三一)
≪書き下し≫百済野(くだらの)の萩(はぎ)の古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りしうぐひす鳴きにけむかも
(訳)百済野の萩の古枝で、春の到来を待ってじっと留まっていた鶯、あの鴬は、もう鳴きはじめたであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「山部宿祢赤人歌一首」<山部宿禰赤人が歌一首>である。
「古枝(ふるえ)に春待つと居(を)りしうぐひす」は、冬の百済野で実際に見て知っていた鶯ではなく、棲んでいるであろう鶯と思われる。こういったことも踏まえて、折口信夫氏は、この歌に関して、「歌はさのみ悪いとは言えぬが、調子がすでに平安朝を斜聴させている。」と批評している。(「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 創元社)
広陵町百済(くだら)周辺は、万葉歌にいう「百済野」の地。名のとおり、百済からの渡来人が住み着いた地であると伝える。『日本書紀』の舒明(じょめい)天皇の条に「詔して曰く、今年大宮及大寺を作らむ。百済川の側(ほとり)を以て宮処と為す。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る」とあり、この地は百済大寺の伝承地とされる。寺は江戸時代初期の延宝3年(1675)に再興されたが、その後は荒廃し、昔の面影を残すのは鎌倉時代に建立されたという三重塔だけ。安定感のある姿や、塔を支える木組みなど、古式の塔の美を堪能できる。(「ええ古都なら>見どころ情報>百済寺」南都銀行ソリューション営業本部HP)
「百済寺(くだらじ)」の説明案内板には、次のように書かれている。
「『日本書記』舒明天皇十一年(六三九)一二月の条に『是の月百済川の側に九重塔を建つ』とあり聖徳太子が平群郡熊凝に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名付けたと伝えられる。その後、火災にあうが、皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至って伽藍を高市郡に移し大官大寺と称したと伝えられるが明確ではない。現存している三重塔は鎌倉中期の建築(昭和五年解体修理)と考えられ明治三十九年国の重要文化財に指定されている。本堂は大織冠と呼ばれ、方三間単層、入母屋造りで内陣に本尊毘沙門天像がまつられている。」
若宮神社の鳥居の背景に三重の塔があり、日本書記にあるように「西の民は宮を造り、東の民は寺を作る」まさに神仏習合の典型の感があった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「ええ古都なら>見どころ情報>百済寺」 (南都銀行ソリューション営業本部HP)
★「百済寺」の説明案内板