―その435―
●歌は、「春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ」である。
●歌碑は、葛城市柿本近鉄新庄駅人麻呂橋欄干にある。
新庄駅前には高田川が流れており、人麻呂橋がかかっている。その袂欄干部に歌碑がレリーフされている。
●歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その433)」で紹介した柿本人麻呂神社の歌碑と同じである。
ここでは、歌のみ再掲載しておきます。
◆春楊 葛山 發雲 立座 妹念
(柿本人麻呂歌集 巻十一 二四五三)
≪書き下し≫春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居(ゐ)ても妹(いも)をしぞ思ふ
(訳)春柳を鬘(かずら)くというではないが、その葛城山(かつらぎやま)に立つ雲のように、立っても坐っても、ひっきりなしにあの子のことばかり思っている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)春柳(読み)ハルヤナギ:①[名]春、芽を出し始めたころの柳。②[枕]芽を出し始めた柳の枝をかずらに挿す意から、「かづら」「葛城山(かづらきやま)」にかかる。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)上三句は序、「立ち」を起こす。
人麻呂歌集の「略体」の典型と言われる歌で、「春楊葛山發雲立座妹念」と各句二字ずつ、全体では十字で表記され、助辞はすべて読み添えてはじめて歌の体をなすのである。
―その436―
●歌は、「あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしづくに」である。
●歌碑は、葛城市当麻 奈良県当麻健民運動場にある。
●この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その172)」で紹介している。ここでは、歌のみ掲載いたします。
歌をみていこう。
◆足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
(大津皇子 巻二 一〇七)
≪書き下し≫あしひきの山のしづくに妹待つと我(わ)れ立ち濡れぬ山のしづくに
(訳)あなたをお待ちするとてたたずんでいて、あしひきの山の雫(しずく)に私はしとどに濡れました。その山の雫に。(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「大津皇子贈石川郎女御歌一首」<大津皇子、石川郎女(いしかはのいらつめ)に贈る御歌一首>である。
奈良県当麻健民運動場は、当麻寺の弘法大師堂の北側にある。大師堂に隣接した角の、東屋が見えるあたりに大津皇子の歌碑が建てられている。その道を運動場に沿って北に進むと、農業者健康管理休養管理センターある。その入口に次の大伯皇女の歌碑が設けられている。
―その437―
●歌は、「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む 」である。
●歌碑は、葛城市当麻 農業者健康管理休養管理センターにある。
●この歌についても、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介しているので、ここでは歌のみ掲載いたします。
歌をみていこう
◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
(大伯皇女 巻二 一六五)
≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む
(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。
父天武天皇も、母大田皇女(天智天皇皇女)もいない。大伯皇女は十余年奉仕した伊勢の斎宮の職を解かれて大和に帰って来た。最愛の弟も二上山に葬られた。それだけに、「うつそみの人なる我れや」は一層「哀傷(かな)しび」の度合いを感じさせるひびきとなっている。
―その438―
●歌は、「春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ」である。
●歌碑は、奈良県御所市 御所小学校横にある。小学校の正門の前(西側)は葛城川が流れている。正門に向かって右手に明神さんがあり、その一角に歌碑が設けられている。堂々とした立派な歌碑である。
●この歌は、上述の「その435」と同じであるので、省略する。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)