万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その440)―御所市高天 高天寺橋本院駐車場―万葉集 巻七 一三三七 

●歌は、「葛城の高間の草野早知りて標刺さましを今ぞ悔しき」である。

 

f:id:tom101010:20200327204514j:plain

高天寺橋本院駐車場万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、御所市高天 高天寺橋本院駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆葛城乃 高間草野 早知而 標指益乎 今悔拭

              (作者未詳    巻七 一三三七)

 

≪書き下し≫葛城(かづらき)の高間(たかま)の草野(かやの)早(はや)知りて標(しめ)刺(さ)さましを今ぞ悔(くや)しき

 

(訳)葛城の高間の萱野(かやの)、そこをいち早く見つけて刈標(かりしめ)を刺しておけばよかったものを。それができなくて、今になって悔やまれてならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)高間の草野:葛城山の中腹。若い女の譬え。

(注)しめ【標・注連】名詞:①神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

②「標縄(しめなは)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

高間山は、今の金剛山をいう。

 

f:id:tom101010:20200327205120j:plain

高天寺橋本院の碑

「御所市観光ガイド」(御所市観光協会・御所市まちづくり推進課HP)の高天寺橋本院の「御由緒・いわれ」には次のように書かれている。

「養老2年(718年)高天山登拝の為この地を訪れた行基菩薩が霊地であることを感じ一精舎を建て一心に冥応し祈った。或る日の事、念想中に容体より光を放ち香気漂う十一面観音菩薩のお姿が現われこの霊応に深く感じさらに修業を続け、困難と苦悩に屈することなく祈念し続けた。人々は、この姿に高天上人と呼び尊敬した。元正天皇(715から724年)はこの功徳を仰いで、又高天の霊地たるを知り、寺地として与え、十一面観音菩薩を刻むことを許された(開基)。以来参拝する人々が後を絶たぬ程盛大かつ繁栄を極めた。又天平17年(745年)には聖武天皇(724から749年)発病の折病気平癒祈願をし、天皇より『宝宥山』の山号をいただくことになる。鑑真和上(735年来日)を住職に任命されるなど、孝謙天皇(749から758年)も深く帰依され高天千軒と呼ばれ格式の高い大寺院で金剛転法輪寺七坊の一つとして石寺、朝原寺などと共に権威を誇った寺であった。又、葛城修験宗の根本道場として役の小角(634から701年)の修業した寺でもあった。しかし、元弘の変(1331年)以後、南朝についた高天寺の修験僧高天行秀らが陰から援助していた事から北朝方の畠山基国(1333年)高師直(1348年)らにことごとく焼き打ちされ、延宝5年(1677年)住職頼勇の手により高天寺の一子院橋本院として復興なる迄350年余衰亡の一途をたどっていた。」

 

 一言主神社からほぼ南へ約5kmの所にある。途中、「橋本院・高天原」と書かれた案内図と「高天寺橋本院参道」の碑がある三叉路を案内図に従って進む。車一台やっと通れるような狭い道である。山裾と田んぼに挟まれた道をしばらく行くと視界が広がる。自動車教習所のようなカーブを幾度も切ながら進む。やがて正面に駐車場が、そして左手に万葉歌碑が見えて来る。駐車場入り口右手には、「史跡 高天原」の碑がある。

f:id:tom101010:20200327204719j:plain

「史跡 高天原」の碑

 駐車場から橋本院までは少し下りになる。山門があり境内を散策することができる。

f:id:tom101010:20200327204841j:plain

駐車場から高天寺橋本院遠望

金剛山の山間に雲が立ち込め、高間の萱野のような雰囲気を醸し出している。

f:id:tom101010:20200327204959j:plain

金剛山方面遠望

万葉歌碑めぐりをしなければ、味あうことがない自然との対話を楽しめるのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「御所市観光ガイド」(御所市観光協会・御所市まちづくり推進課HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」