●歌は、「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」である。
●歌碑は、五條市岡町 荒坂峠にある。
●歌をみていこう。
◆玉剋春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
(中皇命 巻一 四)
≪書き下し≫たまきはる宇智(うち)の大野に馬並(な)めて朝(あさ)踏(ふ)ますらむその草(くさ)深野(ふかの)
(訳)魂の打ち漲(みなぎ)る宇智(うち)の荒野で、この朝、我が大君は馬を勢揃いして、今しも獲物を追い立てておられるのだ、ああその草深い大野よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)たまきはる【魂きはる】分類枕詞:語義・かかる理由未詳。「内(うち)」や「内」と同音の地名「宇智(うち)」、また、「命(いのち)」「幾世(いくよ)」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)宇智の大野(読み)うちのおほの:奈良県五條市の吉野川沿いにあった野。古代の猟地。宇智の野。(コトバンク デジタル大辞泉)
長歌もみてみよう。
題詞は、「天皇遊獦内野之時中皇命使間人連老獻歌」<天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命(なかつすめらもこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆをして献(たてまつ)らしめたまふ歌>である。
◆八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝獦尓 今立須良思 暮獦尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音為奈里
(中皇命 巻一 三)
≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 朝(あした)には 取り撫(な)でたまひ 夕(ゆふえ)には い寄り立たしし み執(と)らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝狩(あさがり)に 今立たすらし 夕狩(ゆふがり)に 今立たすらし み執らしし 梓の弓の 中弭の 音すなり
(訳)やすみしし我れらが大君の、朝方(あさがた)には手に取ってお撫(な)でになり、夕べには傍らに寄ってお立ちになった、ご愛用の梓(あずさ)の弓の中弭(なかはず)の音が聞こえる。朝狩に今お立ちになっておられるらしい。夕狩に今お立ちになっておられるらしい。大君ご愛用の梓の弓の中弭の音がしきりに聞こえてくる。(同上)
(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)あづさゆみ【梓弓】名詞:梓の木で作った丸木の弓。狩猟のほか、祭りにも用いられた。(学研)
(注)中弭・中筈(読み)なかはず〘名〙:弓の弦の中央よりやや下よりにある矢の筈をかける部分。中関(なかぜき)・中仕掛けともいい、ふつうは露という。
※万葉(8C後)一・三「御執らしの 梓の弓の 奈加弭(ナカはず)の 音すなり」
[補注](1)万葉例について、「ながはず(長弭)」とする説、原文を「奈利弭(ナリはず)」の誤りとして、鳴弭とする説、「加奈弭(カナはず)」の誤りとして、金弭の意とする説もある。
(2)和弓では、弓の上端の弦をかける部分を末弭(うらはず)、下端を本弭(もとはず)といい、本項の解釈はこれに基づくが、確証はない。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
荒坂峠の歌碑を探して奈良カントリークラブ辺りをトライアンドエラーの繰り返しをし、見つからず、あきらめて帰路につく。御所市辺りまで帰ってきたが、思い直して、五條市役所で聞いてみようと引き返す。市役所で、詳しく教えてもらう。携帯でストリートビューをしてもらい道を頭に叩き込む。京奈和自動車沿いの脇道を北東に走り、岡町あたりで京奈和の下を斜め右に進み、左手に京奈和を見ながら脇道を走る。しばらく行くと池沿いを大きくカーブする。そのカーブの中ごろあたりの右手にスペースがありそこに「荒坂峠万葉歌碑」と書いた案内板と万葉歌碑がある。
トライアンドエラーの段階では、北宇智駅からアクセスしたりもしたがわからなかったのである。教えてもらって分かったのだが、一度も岡町近辺で斜め右に進まず、直進したことが敗因だった。
市役所まで引き返し、教えてもらったことで万々歳であった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」