万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その447)―生駒市西畑町 暗峠―万葉集 巻二十 四三八〇 

●歌は、「難波津を 漕ぎ出て見れば 神さぶる生駒高嶺に 雲そたなびく」である。

 

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生駒市西畑町 暗峠万葉歌碑(大田部三成)


●歌碑は、生駒市西畑町 暗峠にある。

 

●歌をみていこう。

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その86)」で紹介している。その86の歌碑は、生駒市俵口町生駒山麓公園「万葉のみち」に生駒市内の歌碑の紹介として作られたものである。いつかオリジナルな歌碑を訪れてみたいと思っていたのである。 

 

◆奈尓波刀乎 己嶬埿弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多埿可祢尓 久毛曽多奈妣久

                                  (大田部三成 巻二十 四三八〇)

 

≪書き下し≫難波津(なにはと)を漕(こ)ぎ出(で)て見れば 神(かみ)さぶる生駒高嶺(いこまたかね)に雲そたなびく

 

(訳)難波津を漕ぎ出して振り返ってみると、神々しい生駒の高嶺に、雲がたなびいている。(伊藤 博著「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)

 

 左注は「右一首梁田郡上丁大田部三成」<右の一首は梁田(やなだ)の郡の上丁(じゃうちゃう)大田部三成(おほたべのみなり>とある。

 

(注)梁田郡:栃木県足利郡の南部

 

  四三七三歌から四三八三歌十一首の内の一首である。この歌群の左注は、「二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首 但拙劣歌者不取載之」<二月の十四日、下野(しもつけ)の国(くに)の防人部領使(さきもりのことりづかひ)正六位上田口朝臣大戸(たぐちのあそみおほへ)。進(たてまつ)る歌の数十八首。ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>とある。

 

 

 この歌に関して、堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」の中で、「生駒山は河内、和泉からながめると神秘な山に見えたのである。海上からはるかにながめたのだから、神々しさは格別で、防人の目に、やるせなく悲しく焼き付いたのにちがいない。はるかなる山への、悲愴な思いである。」と書いておられる。

 

 この左注には「進(たてまつ)る歌数十八首 ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず」とある。十一首が万葉集に収録されているが、七首は収録されていない。

 防人たちが作り、奉られた歌は全部で百六十六首であるが、拙き歌として取り上げられなかった歌は八十二首にものぼる。従って八十四首が巻二十に収録されたのである。

 

「なら旅ネット」(奈良県ビジターズビューローHP)には、「暗峠暗越奈良街道」として次のように書かれている。「日本の道100選に選ばれている。『暗峠奈良街道』は大阪と奈良を結ぶ往時の幹線道路で、現在も国道308号線として現役の道路です。府県境の暗峠は、日本の峠100選に選ばれており、当時の面影をしのばせる石畳が今も敷かれています。峠付近には、ハイキングコースもあります。」

 暗峠は、松尾芭蕉もここを通り、「菊の中 暗がり通る 峠かな」の句を残している。大阪側に句碑がある。芭蕉はその後大阪へ抜け、淀屋橋で亡くなったそうだ。

 奈良側には「くらがり峠 旅行く芭蕉」の碑がある。

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「くらがり峠 旅行く芭蕉」の碑

 

 国道308号線は、昔から酷道308線と揶揄されるほど、急坂、急カーブおまけに狭いという道路である。

 

 歌碑の場所を特定するために、奈良女子大の「万葉歌碑データベース」で検索する。ある程度絞り込んでからグーグルマップのストリートビューで確認するのである。目印として、バス停「西畑町入口」と手打ちうどんの店の間にあることを確認する。ここまで具体的に絞り込めたのは珍しいことである。

当日は、歌碑に迷うことなくたどり着けたのは言うまでもない。

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バス停「西畑町入口」と万葉歌碑


 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「なら旅ネット」(奈良県ビジターズビューローHP)

★「奈良女子大 万葉歌碑データベース」