万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その461)―太子町 叡福寺―万葉集 巻二 一六五 

●歌は、「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む」である。

 

 

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太子町 叡福寺万葉歌碑(大伯皇女)


●歌碑は、太子町 叡福寺にある。

 境内に聖徳太子御廟(磯長廟)を擁する叡福寺は、四天王寺法隆寺とならんで、太子信仰の中核となった寺院である。

 歌碑は、積み木細工型である。

 

●歌をみていこう。

この歌は、これまでに幾度となく紹介している。直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その437)」で記載している。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

              (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

  題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

 父天武天皇も、母大田皇女(天智天皇皇女)もいない。大伯皇女は十余年奉仕した伊勢の斎宮の職を解かれて大和に帰って来た。最愛の弟も二上山に葬られた。それだけに、「うつそみの人なる我れや」は一層「哀傷(かな)しび」の度合いを感じさせるひびきとなっている。

 

 大阪府太子町HPに、「叡福寺【府指定史跡】」について次のように書かれている。

 「聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられる叡福寺は、聖徳太子信仰の霊場として発展しました。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失しましたが、豊臣秀頼聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興されました。太子の忌日を偲んで行われる毎年、4月11・12日の大乗会式は、多くの参詣者でにぎわいます。」

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聖徳太子御廟遠望

 同寺には、聖霊殿【国指定重要文化財】(太子堂とも呼ばれ、聖徳太子の十六歳像を祀っている。)、多宝塔【国指定文化財】(聖霊殿から約50年遅れる承応元年(1652)、江戸の三谷三九郎によって再建されました。立派な木材を使用し、近世では正統派に属する端正な多宝塔)、金堂【府指定文化財】(聖霊殿と多宝塔の間に位置し、如意輪観音を本尊としている)、

鐘楼【府指定文化財】、隔夜堂(石造阿弥陀如来坐像)【府指定文化財】などがある。

 

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多宝塔

 

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叡福寺山門

 太子和みの広場の駐車場に車を止め、広場を左手に見ながら、北に進み、交差点を渡ったところが、ポケットパークである。歌碑を4基みてから、交差点を渡りそのまま直進し叡福寺に進む。垣根の隙間から広場の石棺などが見える。やがて右手に太子の御廟、正面左手に多宝塔が見えて来る。逆ではあるが、山門を出て階段を下り駐車場右手の歌碑を探し出す。

立派な大伽藍の叡福寺であるが、万葉歌碑は似つかわしいものではなかったのが残念であった。

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「磯長山叡福寺」の碑

 

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叡福寺縁起説明案内掲示


 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「叡福寺【府指定史跡】」 (大阪府太子町HP)

★「聖徳太子御廟所 上之太子 叡福寺HP」