●歌は、「山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ」
●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(7)である。
●歌をみていこう。
◆山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武
(藤原宇合 巻九 一七三〇)
≪書き下し≫山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ
(訳)山科の石田の小野のははその原、あの木立を見ながら、あの方は今頃独り山道を越えておられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ははそ【柞】名詞:なら・くぬぎなど、ぶな科の樹木の総称。紅葉が美しい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
「柞(ははそ)は、コナラを指すともいい、またクヌギをも含む総称ともいう。コナラもクヌギも落葉高木であるから、その葉の新緑の時か、あるいは黄葉(もみじば)の時に盆地状の山梨を通過したのであろう。松や杉や檜の林をそれぞれ松原、杉原、檜原と呼ぶように、柞原はコナラやクヌギの美しい林を指す。
作者藤原宇合(うまかひ)は、藤原不比等の子で藤原式家を代表する人物である。ところが、歌の内容は明らかに旅に出た主人の帰りを待つ女の心を表している。この矛盾は、旅先の宴の歌にしばしば見られる一人二役と見ることにより解決する。宇合は石田の小野で旅先の自分と都の妻との両方の立場で歌っているのである。宇合は目の前に柞原を眺めつつ、都の妻の立場で主人のいる所を思いやって歌った。さらに、この歌に続いて宇合は、
山科の 石田の杜に 幣置かば けだし我妹(わぎも)に 直に逢はむかも
(巻九 一七三一)
と歌って、今度は男の立場で都の妻を思っているので、まさに宴会での自作自演の歌であるといえよう。」 (万葉の小径 ははその歌碑)
一七三一の「妹」は、男から女への愛称である。女から男への愛称は「背」である。恋歌に、「妹」と「背」が使用される場合、愛人か、夫もしくは妻を指すものである。現代の言葉にあてはまるものはない。「いとしいそなた」「いとしいあなた」といったニュアンスに近い。それぞれに「我が」という修飾語がつき、「我が背」「我妹(わぎも)」となる。接尾語の「子」「な」「ろ」がついて「我が背子」「我が背な」「我妹子(わぎもこ)」「背ろ」などと用いられる。
一七三〇の「君」は、「背」以外に女から男を称する言葉である。男同士の間でも使われるが、女から男を呼ぶ場合が多い。いわば女のコトバであり、「君」に対応する男のコトバは見当たらないという。一方、男にだけあって女にないコトバは、「子」「子ら」「子ろ」である。男がいとしい女の人を呼ぶ場合に用いられ、反対の場合はあまり見当たらないという。男のコトバである
「万葉の小径 ははその歌碑」の説明文にあった一七三一歌をみておこう。
◆山科乃 石田社尓 布麻越者 盖吾妹尓 直相鴨
(藤原宇合 巻九 一七三一)
≪書き下し≫山科の石田の社(もり)に幣(ぬさ)置かばけだし我妹(わぎも)に直(ただ)に逢はむかも
(訳)山科の石田の社(やしろ)に幣帛(ぬさ)を捧げたなら、ひょっとしていとしいあの人に、夢でなくじかに逢(あ)えるだろうか。(同上)
石田の杜(いわたのもり)については、レファレンス協同データベースに次のように記載されている。
「石田の杜は,京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。
・山科の石田の杜に幣(ぬさ)置かばけだし我妹に直に逢はむかも
〈『万葉集』巻九-1731〉 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
・山代の石田の杜に心おそく手向けしたれや妹に逢ひ難き
〈『万葉集』巻十二-2856〉 作者不詳
現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。この石田の杜の所在地については諸説あったようですが,大和から近江への道すがらを歌う長歌『万葉集巻十三 三二三六』や,『“石田杜”を解説する京都の地名等に関する地誌』などから,明治10年(1877),京都府庁が現在の場所がふさわしいとし,社名も現在の天穂日命神社に改称されました。」とある。
上述の長歌(三二三六歌)には、今の奈良県と京都府の県境の「奈良山」、京都府綴喜郡、宇治、そして山科の岩田の社、京都市と大津市の境の「逢坂山」が詠われている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「レファレンス協同データベース」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」