万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その474)―奈良市神功4丁目 万葉の小径(10)―万葉集 巻一 二八

●歌は、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」である。

 

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奈良市神功4丁目 万葉の小径(10)万葉歌碑(持統天皇 たへ)

●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(10)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

               (持統天皇 巻一 二八)

 

≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣(ころも)乾(ほ)したり 天(あま)の香具山(かぐやま)

 

(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの天の香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

 

 「白栲(しろたえ)のは、本来、コウゾの繊維を織った白い布をいうが、それが白の代名詞となり、ここでは白栲(しろたへ)の衣は、真っ白な衣のことをいう。ところで、コウゾは落葉低木で樹皮から白い繊維を取り出して布や和紙の材料とする。栲は『しきたへの』や『たへのほ』という表現もあるが、『しろたへの』がもっとも多く、約100例に及んでいる。栲は、『たく』ともいうことがある。ただ、栲(たく)というときは、栲を美しく飾る白や敷くという飾りはなく、むしろ、栲の次に領巾(ひれ)や衾(ふすま)、あるいは、縄などの身近な衣裳や生活的な言葉が続く時が多い。

 持統天皇は夫天武天皇の遺志を継いで六八六年九月九日に天武天皇崩御の後、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で政治を行い、六九四年十二月には、日本で初めての唐長安を模した広大な藤原宮を完成させた。この歌は、飛鳥浄御原宮での歌か、あるいは、藤原宮での歌か説が分かれるところである。たえず東に香具山を望むという点では、藤原宮での作と取りたい。高市皇子(たけちのみこ)の力を借りつつも、やっと完成させた藤原宮からほぼ東の香具山を見て、ふと季節の推移を思った天皇としての自信溢れた堂々とした歌ととらえたい。」 (万葉の小径 たへの歌碑)

 

 堀内民一氏は「和銅三年(710年)の奈良の遷都までの約十五年間、藤原京が都となった。藤原京を囲む大和三山の中で、一番宮殿に近く東の宮廷門に迫るように立っていたのが香具山である。しかしこの歌は、明日香京から北辺に香具山を望んだお歌とするが方がよい。その山の上辺にも南おもての村里にも白い衣が乾してある風光。」とし、「香具山で禊をする女性がその聖衣を脱ぎ掛けておくという(中略)美しい連想がある。春夏の交は村の処女の野遊び、山行きの季節だから、五月処女(さおとめ)の資格を得るための山ごもりの行事は、古代から行われていた。持統天皇が、香具山の上辺にかけつらねた物忌みの斎衣(をみごろも)をごらんになって、おなじ御女性として、山ごもりの処女を思いやられた」と述べている。

 

 季節の移ろいといったある意味単純な歌としてとらえるよりも、季節の変り目の行事、衣も単に「衣」というのでなく「白妙の衣」と強調している点や、持統天皇の在位中の厳しい政局を越えるため吉野行脚が31回にも及んだことなどから「信仰」に焦点をあてて、考えるとすれば、明日香説に軍配があがるのではと思う。

 

 少し脱線するが、万葉集の読み方についてみていこう。万葉集は八世紀末に成立したと言われている。それ以降、一二〇〇年もの長きにわたって読み継がれてきたのである。その間、多くの人たちによって、語り継がれ、写本がなされ、歌人等の研究を経てきたわけである。

 藤原定家(1162~1241、鎌倉初期の歌人)もその一人である。「新古今和歌集」の選者の一人である。

 定家の晩年の秀歌選である「小倉百人一首」にも、万葉集から五首選ばれている。その一首が、この持統天皇の歌である。ただ、読み方が、定家の古代に思いを馳せた「万葉集らしさ」を求めていたとも考えられる。「小倉百人一首」では、「春過ぎて 夏来(き)にけらし 白妙の 衣(ころも)干(ほ)すてふ 天の香具山」と読まれている。

 定家の父、藤原俊成(1114~1204、平安後期の歌人)は、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをしたといわれる。後白河院院宣により、「千載和歌集」を撰進したことでも有名である。歌論書「古来風体抄(こらいふうていしょう)」を晩年に編している。この中で、万葉集の秀歌として九四首がとりあげられている。これが、定家に大きな影響を与えたことは否定できない。

 ちなみに、「古来風体抄」では、持統天皇の歌は、「春過ぎて 夏ぞ来ぬらし 白妙の 衣乾かす 天の香具山」と読まれている。

 

 上記の読み方を並べてみる。微妙にニュアンスが異なることが分かる。

 

①現在の万葉集の読み方

春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲の 衣乾(ほ)したり 天の香具山

 

小倉百人一首の読み方

春過ぎて 夏来(き)にけらし 白妙の 衣干(ほ)すてふ 天の香具山

 

③古来風体抄の読み方

春過ぎて 夏ぞ来(き)ぬらし 白妙の 衣乾(かわ)かす 天の香具山

 

 「万葉の小径」は、カラト古墳側から緩やかに上りになっている。「たへの歌」はほぼ「万葉の小径」の峠のようなところにあり、ここから押熊瓦窯の方に下って行くのである。峠の位置に「万葉人と植物」の説明案内プレートがある。

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「万葉人と植物」の説明案内プレート

 

 

 

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉の-その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「万葉集と日本人」 小川靖彦 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「万葉の小径 たへの歌碑」