●歌は、「早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも」である。
●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(19)にある。
●歌をみていこう。
◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去毛奚留鴨
(高市黒人 巻三 二七七)
≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀の槻群(たかのつきむら)散にけるかも
(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
「槻(つき)は、ほぼケヤキと見る説が定着している。それは、牧野植物図鑑に「(ケヤキの)一変種にツキがある。ツキには俗字として槻を用いる。ツキはもともとケヤキの古名であろう」とあるのに、諸説従ってのことである。ケヤキは落葉高木で、他の木よりも抜きんでて高く、ひときわ目立つので、槻には神が宿ると思われていた。また、高木であるので、春の芽吹きや秋の黄葉の美しさも、古代の人の興味をひいていた。実際、ケヤキの新緑の萌木色(もえぎいろ)は鮮やかで、秋の黄褐色の葉も美しく、さらに冬枯れの景色の中で、高い細い枝が天を掃くかのように、すくっと立っている様子は、特に辺りが雪に包まれているときなど、白黒の美これに適うものはない。
暗い夜を照らす月が同じ営みを繰り返すことが人々の目をひいて、そこに永遠不滅を感じたように、いつも目立っている槻が、芽吹き、茂り、黄葉し、枯れることを繰り返す所に永遠性を見ていた。高市黒人は、旅愁をテーマとして、旅の歌ばかりを歌う人である。すでに散ってしまった槻の葉の美を歌うのも。黄葉の盛りを歌うよりは、旅の心にはふさわしいといえよう。」 (万葉の小径 つきの歌碑)
二七〇~二七七の歌群の題詞は、「高市連黒人羈旅歌八首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が羈旅(きりょ)の歌八首>である。
他の七首もみてみよう。
◆客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保舡 奥榜所見(二七〇歌)
≪書き下し≫旅にしてもの恋(こひ)しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船(ふね)沖に漕(こ)ぐ見ゆ
(訳)旅先にあって妻(つま)恋しく思っている時に、ふと見ると、先ほどまで山の下にいた朱塗りの船が沖のかなたを漕ぎ進んでいる。
(注)そほぶね【赭舟】名詞:赤土を塗った舟。「そほふね」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
中西 進氏は、その著「万葉の心(毎日新聞社)」の中で、この歌について、「ただでさえ何かと物恋しい旅愁を、いっそう深めたものは、赤土を塗った舟の姿であった。『沖に漕ぐ見ゆ』、点景として移動する赤を、黒人はじっと見ていた。肉体を離れて、あこがれてゆく魂、そういったものを黒人の歌は感じさせる。彼らのとって、旅とはそのようなものであった。」と述べておられる。
◆櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡(二七一歌)
≪書き下し≫桜田 (さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る
(訳)桜田の方へ、鶴が群れ鳴き渡って行く。年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい。今しも鶴が鳴き渡って行く。
(注)年魚市潟:名古屋市南部の入海であった所
◆四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟(二七二歌)
≪書き下し≫四極山(しはつやま)うち越(こ)え見れば笠縫(かさぬひ)の島漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)
(訳)四極山を越えて海上を見わたすと、笠縫(かさぬい)の島陰に漕ぎ隠れようとする小舟が見える。
◆礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳 (二七三歌)
≪書き下し≫磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)の港(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く 未詳
(注)未詳とあるが、二七四、二七五歌の近江の歌と同じ折か不明、の意らしい
(訳)磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海、この海にそそぐ川の河口ごとに、鶴がたくさんうち群れて鳴き騒いでいる。
◆吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去來(二七四歌)
≪書き下し≫我(わ)が舟は比良(ひら)の港に漕(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜(よ)更(ふ)けにけり
(訳)われらの舟は比良の港でとまることにしよう。沖の方へ離れてくれるなよ。もはや夜も更けてきたことだし。
◆何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者(二七五歌)
≪書き下し≫いづくにか我(わ)が宿りせむ高島の勝野の原にこの日くれなば。
(訳)いったいどのあたりでわれらは宿をとることになるのだろうか。高島の勝野の原でこの一日が暮れてしまったならば。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
上二句で、「いづくにか我(わ)が宿りせむ」と、主観的に、不安を先立たせ、目の前の現実の土地「高島の勝野の原」に落とし込む。「この日くれなば」と状況を畳みかけているのである。夕暮れ迫る中、西近江路を急ぐ不安な気持ちが時を越えて伝わってくるのである。
◆妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴(二七六歌)
一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去
≪書き下し≫妹も我(あ)れも一つなれかも三河(みかは)なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる
一本には「三河の二見の道ゆ別れなば我(わ)が背(せ)も我(あ)れも一人かも行かむ」といふ
(訳)あなたも私も一つだからでありましょうか、三河の国の二見の道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。
一本「三河の国の二見の道でお別れしてしまったならば、あなたも私も、これから先一人ぼっちで旅行くことになるのでしょうか。
「槻(つき)」は万葉集では八首詠われている。歌番のみ記す。
二一〇、二一三、二七七、一二七六、二三五三、二六五六、三二二三、三二二四の八首である。ただし、三二二四歌は、三二二三歌の反歌であり、単に「黄葉」と詠われているが、三二二三歌の「斎槻(いつき)」を受けての「(斎槻)の黄葉」と解釈されている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「万葉の小径 つきの歌碑」