万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その484)―奈良市神功4丁目 万葉の小径(20)―万葉集 巻八 一四七二

●歌は、「ほととぎす来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを」である。

 

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奈良市神功4丁目 万葉の小径(20)万葉歌碑(石上堅魚 うのはな)

●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(20)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆霍公鳥 来鳴令響 宇乃花能 共也来之登 問麻思物乎

               (石上堅魚 巻八 一四七二)

 

≪書き下し≫ほととぎす来鳴き響(とよ)もす卯(う)の花の伴(とも)にや来(こ)しと 問はましものを

 

(訳)時鳥が来てしきりに鳴き立てている。お前は卯の花の連れ合いとしてやって来たのかと、尋ねたいものだが。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とよもす【響もす】他動詞:「とよむ」に同じ。>とよむ【響む】他動詞:鳴り響かせる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 「卯の花は五月末頃に白い花を咲かせ、今日、正確にはウツギと呼ばれる落葉低木を指している。万葉集には二四首の歌が歌われ、その中一六首がほととぎすと共に詠まれているので、石上堅魚がほととぎすの声を聞いて、卯の花はまだ咲かないかと思うのは、梅が咲いて鶯の声を楽しみ、もみちの頃に雁を思うのと、同じ心の表れである。

 ほととぎすの鳴き声は「鳴き響(とよ)もす」と歌われる場合が多い。鳴いて辺りを響かせると聞いているのだが、他には、春のうぐいすや雉(きぎし)の鳴き声を、さらには秋の鹿の鳴き声をやはり「鳴き響もす」と歌っている。また、ほととぎすや鹿の声は、時として「山彦とよめ」と歌われるほど、辺りを響かせていたようだ。

石上堅魚は、この時、都からの弔問の使者として大宰府の帥(そち:長官)大伴旅人を訪ねている。神亀(じんぎ)五年(七二八)大宰帥として着任直後、妻大伴郎女に先立たれた大伴旅人を弔問したの後、勅使や大宰府の役人とともに記夷の城(きのき:今の基山<きやま>)に登った時に、旅人の心を思って歌ったものである。」

                        (万葉の小径 うのはなの歌碑)

 

 

 この歌の左注は、「右神亀五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉 干時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣大宰府弔喪幷賜物也 其事既畢驛使及府諸卿大夫等共登記夷城而望遊之日乃作此歌」<右は、神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)に、太宰師(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が妻大伴郎女(おほとものいらつめ)、病に遇(あ)ひて長逝(ちょうせい)す。その時に、勅使式部大輔(しきぶのだいふ)石上朝臣堅魚(いそのかみのかつを)を大宰府(ださいふ)に遣(つか)はして、喪(も)を弔(とぶら)ひ幷(あは)せて物を賜ふ。その事すでに畢(をは)りて、駅使(はゆまづかひ)と府の諸卿大夫等(まへつきみたち)と、ともに記(き)夷城(き)に登りて望遊(ぼういう)する日に、すなはちこの歌を作る>である。

 

 これに対して大伴旅人が歌で和(こた)えている。

 こちらもみてみよう。

 

題詞は、「大宰帥大伴卿和歌一首」<大宰帥大伴卿が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多寸

               (大伴旅人 巻八 一四七三)

 

≪書き下し≫橘の花散る里のほととぎす片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き

 

(訳)橘の花がしきりに散る里の時鳥、この時鳥は、散った花に独り恋い焦がれながら、鳴く日が多いことです。(同上)

 

 旅人の大宰府務めは二回目であるが、藤原氏の策略といわれている。辺境に追いやられたうえに、赴任後一,二年で妻を失っている。その悲しみは万葉集で十三首(巻三 四三八~四四〇・四四六~四五三、巻五 七九三、巻八 一四七三)収録されている。

 

四三八~四四〇歌をみてみよう。

 

題詞は、「神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首」<神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、故人を思(しの)ひ恋ふる歌三首>である。

 

◆愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉

               (大伴旅人 巻三 四三八)

 

≪書き下し≫愛(うつく)し人のまきてし敷栲(しきたへ)し我(わ)が手枕(たまくら)をまく人あらめや

 

(訳)いとしい人が枕にして寝た私の腕(かいな)、この手枕を枕にする人が亡き妻のほかにあろうか。あるものではない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(学研)

(注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。 ※なりたち➡推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」

 

 左注は、「右一首別去而経數旬作歌」<右の一首は、別れ去(い)にて数旬を経て作る歌>である。

 

◆應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕

              (大伴旅人 巻三 四三九)

 

≪書き下し≫帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)いよいよ都に帰ることができる時期とはなった。しかし、都でいったい誰の腕を、私は枕にして寝ようというのか。(同上)

(注)旅人の帰京は天平二年(730年)十二月である。

(注)まくらく>まく【枕く】>他動詞:枕(まくら)とする。枕にして寝る。 ※上代語(学研)

 

◆在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦

               (大伴旅人 巻三 四四〇)

 

≪書き下し≫都にある荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし

 

(訳)都にある家にたった一人で寝たならば、今の旅寝にもましてどんなにつらいことであろうか。(同上)

 

左注は、「右二首臨近向京之時作歌」<右の二首は、京(みやこ)に向ふ時に臨近(ちか)づきて作る歌>である。

 

妻の死を、受け止めながらも、心にぽっかりと大きな穴が開いた感覚で詠っている。過去から未来に時間軸上、現実感がない心情であるといえよう。

 

 「卯の花」は、幹の中が空洞になっているので、現在の植物名では「うつぎ(空木)」を当てている。古くから、丈夫で加工しやすいことから木釘や木栓に使われてきた。「卯の花」は、万葉集では二三首に詠まれている。その多くは、初夏の風物としてほととぎすと共に詠まれている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文学 万葉集必携」 稲岡 耕二 編 (學燈社

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉の小径 うのはなの歌碑」