万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その496)―奈良市神功4丁目 万葉の小径(32)―万葉集 巻五 八二二

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

 

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奈良市神功4丁目 万葉の小径(32)万葉歌碑(大伴旅人 うめ)

●歌碑は、奈良市神功4丁目 万葉の小径(32)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母

              (大伴旅人 巻五 八二二)

 

 

≪書き下し≫我(わ)が園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも

 

 (訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥(はる)かな天空から雪が流れて来るのであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注) ひさかたの【久方の】分類枕詞:天空に関係のある「天(あま)・(あめ)」「雨」「空」「月」「日」「昼」「雲」「光」などに、また、「都」にかかる。語義・かかる理由未詳。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

「ウメは万葉集の中で約一二〇首の歌が歌われる落葉高木で、木の花の中でもっとも多く詠まれている。サクラなどに較べて山野のウメが歌われることはまれで、そのほとんどが庭に咲くウメであり、白い梅花である。時代的にもサクラが古い伝統を持ち、宮所(みやどころ)の名にも(磐余若桜宮<いわれわかさのみや)、土地の名にも(桜井)、人の名にも(桜児玉<さくらこ>)、桜という字を見出すが、梅はそれらとはあまり縁がない。いや、飛鳥・藤原の時代に於いてすら、梅の歌はまず歌われていない。一二〇首もの梅の歌は、そのほとんどが平城京へ遷都して後の歌である。

 奈良の都の貴族たちは、枯枝に雪が積もると白い梅の花が咲いたかと思い、春が立つとさあ梅の花の時期だと喜び、梅の林に鳴くうぐいすの声をほめ、散り始めると旅人の歌のように白い花びらかあるいは雪かと楽しみ、梅がすっかり散るとそろそろ桜の時だと歌い続ける。これほど貴族が梅花を歌うのは、万葉の時代に梅が中国から輸入され、貴族たちがこぞって梅を自分の庭に植え、梅ということばを口にすることが、貴族の意識をかきたてたからであろう。

庭木は宴会の時などには歌の素材としてふさわしい。この歌も、天平二年(七三〇)正月、太宰府での梅花の宴で歌われたものである。」(万葉の小径歌碑「うめ」

 

 題詞は、「梅花歌卅二首幷序」<梅花(ばいくわ)の歌三十二首幷せて序>とあり、八一五~八四六の三二首が収録されている。

この序文が、「令和」の典拠、いわゆる出典元である。序文の詳細は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その485)」に書いている。

 この三十二首の歌の中に、旅人とともに筑紫歌壇なるものを作り上げたと言われている山上憶良の歌もある。

 歌をみてみよう。

 

◆ 波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都ゝ夜 波流比久良佐武

               (山上憶良 巻五 八一八)

 

≪書き下し≫春さればまづ咲くやどの梅の花ひとつ見つつや春日(はるひ)暮らさむ

 

(訳)梅の花よ、今咲いているように散り過ぎることなく、この我らの園にずっと咲き続けてほしい。(同上)

 

 作歌名として、「筑前守山上大夫(つくしのみちのくちのかみやまのうへのまへつきみ)」とある。すなわち筑前国山上憶良である。

 山上憶良筑前守として任命され、九州に赴任したのは神亀三年(726年)であった。67歳であったという。そして神亀五年(728年)に大伴旅人が大宰師(だざいのそち)として大宰府に赴いたのである。

 旅人は、代々宮廷を守ってきた貴族の家柄である。当時、都では藤原氏が台頭し、名家の大伴家は没落の一途にあった。当時はまさに「天離る鄙(あまざかるひな)」である大宰府に、63,4歳という年齢で赴任させられたのである。しかも、不幸なことに、赴任してまもなく、愛妻の大伴郎女を亡くしてしまうのである。こういったやりきれなさが、旅人をして勉学に励み、歌を作らせることになっていったのである。越中に赴任させられた家持と似ている。旅人の歌は、万葉集には七十首ほど収録されているがそのほとんどは大宰府で作られたといってよいのである。

 山上憶良らと共に、「筑紫歌壇」が形成されていったのである。

 

 旅人ならびに憶良の望郷の心を歌った歌をみてみよう。

 

◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

              (大伴旅人 巻三 三三二)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)常にあらぬか昔見し象(さき)の小川(をがは)を行きて見むため

 

(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)象の小川(きさのおがわ):喜佐谷の杉木立のなかを流れる渓流で、やまとの水31選のひとつ。吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもつ流れがこの川となって、吉野川に注ぎます。万葉集歌人大伴旅人もその清々しさを歌に詠んでいます。(奈良県吉野町HP)

 

◆吾盛 復将變八方 殆 寧樂京乎 不見歟将成 

               (大伴旅人 巻三 三三一)

 

≪書き下し≫我(わ)が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ

 

(訳)私の盛りの時がまた返ってくるだろうか、いやそんなことは考えられない。ひょっとして、奈良の都、あの都を見ないままに終わってしまうのではなかろうか。(同上)

(注)をつ【復つ】自動詞:元に戻る。若返る。(学研)

(注)ほとほと(に)【殆と(に)・幾と(に)】副詞:①もう少しで。すんでのところで。危うく。②おおかた。だいたい。 ※「ほとど」とも。 語の歴史➡平安時代末期には、「ほとほど」または「ほとをと」と発音されていたらしい。のちに「ほとんど」となり、現在に至る。(学研)

 

 年齢と望郷、時間軸、空間軸をうまく組み合わしただけに切ない気持ちがひしひしと伝わる。

 

 

◆阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都ゝゝ 美夜故能提夫利 和周良延尓家利

 (山上憶良 巻五 八八〇)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住ひつつ都のてぶりわすらえにけり

 

(訳))遠い田舎に五年も住み続けて、都の風俗、あの風俗を私はすっかり忘れてしまった。(同上)

 

◆阿賀農斯能 美多麻ゝゝ比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 咩佐宜多麻波祢

                (山上憶良 巻五 八八一)

 

≪書き下し≫我(あ)が主(ぬし)の 御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げたまはね

 

(訳)あなた様のお心入れをお授け下さって、春になったら、奈良の都に召し上げて下さいませ。(同上)

 

 この憶良の歌は、都に戻ることができた、いわば大宰府のかつての上司である旅人に、題詞にあるように、歌に託して「敢えて私懐(しかい)を布(の)」べて都に戻どしてほしいと訴えているのである。今の時代にもありそうな出来事である。ちなみに憶良は二年後の天平四年に奈良の都に戻ることができたのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「太陽 特集 万葉集」(平凡社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「奈良県吉野町HP」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉の小径歌碑 うめ」