●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(4)にある。
●この歌は、これまでにも紹介しているが、みてみよう。
◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨
(日並皇子尊宮舎人 巻二 一八五)
≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも
(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。「うらわ」とも。(学研)
(注)茂く>もし【茂し】( 形ク ):草木の多く茂るさま。しげし。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)
一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。
草壁皇子が薨去(こうきょ)したのは689年。『日本書紀』には「皇太子草壁皇子尊薨(ひつぎのみこくさかべのみこのみことかむさ)ります」という簡潔な一文で記録されている。
草壁皇子を語るには、悲劇の大津皇子について触れずにはえられない。
両皇子の父は、天武天皇である。草壁皇子の母は、皇后の鸕野讃良皇女(うのささらのひめみこ)であり、大津皇子の母は大田皇女(おおたのひめみこ)である。鸕野讃良皇女、大田皇女はともに天智天皇の皇女(鸕野讃良は妹、大田皇女が姉)である。大田皇女は、大津皇子を生んで数年後に亡くなったので、第2妃の鸕野讃良が昇格し皇后になったのである。
草壁皇子は皇太子になるも、大津皇子の才能と存在感はそれを上回っていたと言われている。皇后にとって大津皇子の存在は草壁皇子の脅威でしかなかったものと思われる。
686年9月9日天武天皇が崩じるや、1か月も経たない10月2日に大津皇子は「謀反の発覚」により捕えられ翌日には死を賜ったのである。『日本書紀』は大津皇子を謀反人として記録しながらも、優秀な人物であったと評価し、漢詩等の文学の才も認めている。
689年4月に草壁皇子は急逝したのである。
草壁皇子は、蘇我氏の旧邸宅の後を、宮殿にしたもので「飛鳥の島の宮」といわれていたところに住んでいた。飛鳥川などの水を利用した宮殿造りで、蘇我馬子は島大臣(しまのおとど)と呼ばれていた。島の宮の故地は、今の飛鳥の岡の南の島の庄の地で、飛鳥川に臨んだところで、橘の島の宮ともいわれる。
橘の島の宮に関しては、コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及として、「大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる」と載っている。万葉集の歌からも当時の庭園の概要がつかめるのである。
「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」は、ひとりの「代作者」によってつくられたものと考えられている。時系列的に六つの歌群に別れている。
二十三首をみてみよう。訳は、伊藤 博 著 「万葉集 一」(角川ソフィア文庫)による。
※第一群(一七一から一七四歌):皇子の亡骸を島の宮から佐田の岡へ移す時の感慨
◆高光 我日皇子乃 萬代尓 國所知麻之 嶋宮波母(巻二 一七一)
≪書き下し≫高光る我(わ)が日の御子(みこ)の万代(よろづよ)に国知らさまし島の宮はも
(訳)輝き照らすわが日の皇子(みこ)が、万代かけて国土を治められる島の宮なのに、ああ。
◆嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十方(巻二 一七二)
≪書き下し≫島の宮上(かみ)の池なる放ち鳥荒(あら)びな行きそ君座(いま)さずとも
(訳)島の宮の上の池にいる放ち鳥よ、つれなくここを見捨ててゆかないでおくれ。君がここにおられなくなっても。
◆高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者 不荒有益乎(巻二 一七三)
≪書き下し≫高光る吾が日し皇子の御坐(い)ましせば島し御門は荒れずあらましを
(訳)輝き照らすわが日の皇子(みこ)がこの世においでだったら、島の御殿は荒れずにあったろうに。
◆外尓見之 檀乃岡毛 君座者 常都御門跡 侍宿為鴨(巻二 一七四)
≪書き下し≫外(よそ)に見し真弓の岡も君座(ま)せば常(とこ)つ御門(みかど)と侍宿(とのゐ)するかも
(訳)今まで縁もゆかりもない所と見てきた真弓の岡であるのに、わが皇子がずっとおいでになるのであれば、ついに永遠にお鎮まりになるの御殿として宿直すことです。
(注)皇子の籠るところは「真弓の岡」、舎人たちが奉仕するところは「佐田の岡」といっている。
※第二群(一七五から一七七歌):皇子を殯宮(あらきのみや)に鎮めた時の感慨
◆夢尓谷 不見在之物乎 欝悒 宮出毛為鹿佐日之隅廻乎(巻二 一七五)
≪書き下し≫夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ檜の隈(くま)みを
(訳)こんなことになるとは夢にさえ見はしなかったのに、心も晴れやらず殯宮(あらきのみや)にお仕えするというのか。島の宮から檜前(ひのくま)の道を通っては。
(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。 <上代語。(学研)
◆天地与 共将終登 念乍 奉仕之 情違奴(巻二 一七六)
≪書き下し≫天地(あめつち)とともに終へむと思ひつつ仕へまつりし心違(たが)ひぬ
(訳)天地とともに永遠にと思いながら、わが君にお仕え申してきたのだが、その志も無になってしまった。
◆朝日弖流 佐太乃岡邊尓 群居乍 吾等哭涙 息時毛無(巻二 一七七)
≪書き下し≫朝日照る佐田(さだ)の岡辺(をかへ)に群れ居(ゐ)つつ我が泣く涙(なみた)やむ時もなし
(訳)朝日の照る佐田の岡辺に相群れて侍宿(とのい)しながら、われらが泣く涙はやむ時もない。
※第三群(一七八から一八二歌):皇子生前の島の宮に侍宿に任じた折りの詠
◆御立為之 嶋乎見時 庭多泉 流涙 止曽金鶴(巻二 一七八)
≪書き下し≫み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止(と)めぞかねつる
(訳)皇子がよくお立ちになったお庭を見ていると、雨水が流れ出すように流れる涙は、止めようにも止められない。
◆橘之 嶋宮尓者 不飽鴨 佐田乃岡邊尓 侍宿為尓徃(巻二 一七九)
≪書き下し≫橘(たちばな)の島の宮には飽(あ)かぬかも佐田の岡辺に侍宿(とのゐ)しに行く
(訳)橘の島の宮では物足りないとて、われらはあの佐田の岡辺にまで侍宿しに行くというのか。
(注)とのゐ【宿直】名詞:①宿直(しゆくちよく)。夜、宮中・役所・貴人の邸宅などに職務として宿泊して、警護・事務、その他の奉仕をすること。②夜、天皇や貴人の寝所に仕えて、お相手をつとめること。(学研)
◆御立為之 嶋乎母家跡 住鳥毛 荒備勿行 年替左右(巻二 一八〇)
≪書き下し≫み立たしし島をも家(いへ)と棲む鳥も荒(あら)びな行きそ年かはるまで
(訳)皇子がよくおたちになったお庭をわが家として棲む鳥も、ここを見捨てないでおくれ。せめて年がかわるまで。
◆御立為之 嶋之荒礒乎 今見者 不生有之草 生尓来鴨(巻二 一八一)
≪書き下し≫み立たしの島の荒礒(ありそ)を今見れば生(お)ひずありし草生ひにけるかも
(訳)皇子がよくお立ちになったお庭の池の荒磯(いそ)、その磯を立ち帰って今また見ると、前には生えていなかった草が、あたりいっぱいに生い茂っている。
◆鳥▼立 飼之鴈乃兒 栖立去者 檀岡尓 飛反来年(巻二 一八二)
≪書き下し≫鳥座(とぐら)立て飼ひし雁(かり)の子巣立(すだ)ちなば真弓の岡に飛び帰り来(こ)ね
(訳)鳥小屋をこしらえて飼っている島の宮雁の子よ、巣立ったならば、皇子鎮まり給う真弓の岡に飛び帰って来ておくれ。
※第四群(一八三から一八七歌):三群は庭園に関心が高かったが、ここでは御門に目を注ぐ
◆吾御門 千代常登婆尓 将榮等 念而有之 吾志悲毛(巻二 一八三)
≪書き下し≫我が御門(みかど)千代(ちよ)とことばに栄えむと思ひてありし我(わ)れし悲しも
(訳)われらが御殿は千代万代に永遠に栄えるであろう、と思いこんでいたこの自分が悲しい。
◆東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無(巻二 一八四)
≪書き下し≫東(ひむがし)のたぎの御門に侍(さもら)へど昨日(きのふ)も今日(けふ)も召す言(こと)もなし
(訳)東のたぎの御門に伺候しているけれど、昨日も今日もお召しになるお言葉もない。
◆水傳 礒乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨(巻二 一八五)
≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも
(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。
◆一日者 千遍参入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨(巻二 一八六)
≪書き下し≫一日(ひとひ)には千 (ち)たび参りし東(ひむがし)の大(おほ)き御門(みかど)を入りかてぬかも
(訳)ご生前、一日のうちに何度も何度も参入した東の大きな御門、この御門には今は入る気力もすっかり失せてしまった。
◆所由無 佐太乃岡邊尓 反居者 嶋御橋尓 誰加住儛無(巻二 一八七)
≪書き下し≫つれもなき佐田の岡辺に帰り居(ゐ)ば島の御階(みはし)に誰(た)れか住まはむ
(訳)今ここからゆかりもない佐田の岡辺に帰ってお仕えしたなら、ここのお池の御階には誰がとどまって伺候するのであろうか。
※第五群(一八八から一九一歌):回想の悲しみに生きなければならないことの嘆き
◆旦覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨(巻二 一八八)
≪書き下し≫朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの島に下(お)り居(ゐ)て嘆きつるかも
(訳)朝曇りして日が翳(かげ)ってゆくので、皇子がよくお立ちになったお庭に下り佇んで、溜息(ためいき)をつくばかりだ。
◆旦日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛(巻二 一八九)
≪書き下し≫朝日照る島の御門におほほしく人(ひと)音(おと)もせねばまうら悲(がな)しも
(訳)朝日の照る島のこの御殿に、うっとうしくも人の物音一つしないので、しんそこ悲しい。
◆真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛(巻二 一九〇)
≪書き下し≫真木柱(まきばしら)太き心はありしかどこの我(あ)が心鎮(しづ)めかねつも
(訳)真木柱のように物に動ぜぬ心はあったはずなのに、この心のうち、わが悲しみはとても鎮めきれない。
◆毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨(巻二 一九一)
≪書き下し≫けころもを時かたまけて出でましし宇陀(うだ)の大野は思ほえむかも
(訳)狩の時節を待ちうけてはお出ましになった宇陀の大野、あの荒野は、これからもしきりに思い出されることであろう。
※第六群(一九二から一九三歌):一周忌最終段階の感慨
◆朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎(巻二 一九二)
≪書き下し≫朝日照る佐田の岡辺に鳴く鳥の夜(よ)哭(な)きかへらふこの年ころを
(訳)朝日の照る佐田の岡辺で鳴く鳥のように、夜(よ)哭(な)きに明け暮れたものだ。この一年間というものは。
◆八多篭良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙為(巻二 一九三)
≪書き下し≫畑子(はたこ)らが夜昼(よるひる)といはず行く道を我はことごと宮道(みやぢ)にぞする
(訳)墓造りの人びとが夜昼となく通う道、われらは終始ひたすら宮仕えの道にしたものだ。
左注は、「右日本紀曰 三年己丑夏四月癸未朔乙未薨」<右は、日本紀には「三年己丑(つちのとうし)の夏の四月癸(みづのと)未(ひつじ)の朔(つきたち)の乙未(きのとひつじ)に薨(こう)ず」といふ>である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク」(世界大百科事典)