万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その503)―奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(5)―万葉集 巻二 二三一

●歌は、「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」である。

 

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奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(5)(笠金村 はぎ)

●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(5)にある。

                           

●歌をみてみよう。

 

◆高圓之 野邊秋芽子 徒 開香将散 見人無尓

               (笠金村 巻二 二三一)

 

≪書き下し≫高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに

 

(訳)高円の野辺の秋萩は、今はかいもなくは咲いて散っていることであろうか。見る人もいなくて。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いたづらなり【徒らなり】形容動詞:①つまらない。むなしい。②無駄だ。無意味だ。③手持ちぶさただ。ひまだ。④何もない。空だ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌」<霊龜元年歳次(さいし)乙卯(きのとう)の秋の九月に、志貴皇子(しきのみこ)の薨ぜし時に作る歌一首幷(あは)でて短歌>である。この歌は、短歌二首の一首である。

 (注)志貴皇子:《万葉集》の歌人天智天皇の皇子。母は越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ)。没年については2説がある。光仁天皇の父で,その即位に伴い御春日宮天皇と追尊された。田原天皇とも称される。壬申の乱では死を免かれ,《万葉集》に短歌6首を残す。清澄温雅な歌風。また笠金村による皇子の挽歌(巻2)は著名。(コトバンク 平凡社百科事典マイペディア)

 

 長歌をみてみよう。

 

◆梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挟 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道来人之 泣涙 霂深尓落者 白妙之 衣埿漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名唁 聞者 泣耳師所哭 語者 心曽痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有

                  (笠金村 巻二 二三〇)

                                       

≪書き下し≫梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟(たばさ)み 立ち向(むか)ふ 高円山(たかまとやま)に 春野(はるの)焼く 野火(のひ)と見るまで 燃ゆる火を 何(なに)かと問へば 玉鉾(たまほこ)の 道来る人の 泣く涙(なみた) こさめに降れば 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)ひづちて 立ち留(と)まり 我(わ)れに語らく なにしかも もとなとぶらふ 聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇(すめろき)の 神の御子(みこ)の いでましの 手火(たひ)の光りぞ ここだ照りてある

 

(訳)梓弓(あずさゆみ)を手に取り持って、大丈夫(ますらを)が矢を脇挟んで 立ち向かう的(まと)、その名を持つ高円山(たかまとやま)に、春の野を焼く火と見まがうほどに燃える火、その火を「あれは何だ」と尋ねると、玉鉾立つ道をやって来る人が涙を小雨のように流して、白麻の衣をぐっしょり濡らしながら、立ち留って私にこう語った。「何だって由ないことをお尋ねになるのです。そんなことを耳にするとただ泣けてきます。わけをお話しするとただ心が痛みます。実は、天子様、そう、その神の御子のご葬列の送り火が、こんなにも赤々と照らしているのです」。(同上)

(注)さつや【猟矢】名詞:獲物を得るための矢。(学研)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)とぶらふ【訪ふ】他動詞:①尋ねる。問う。②訪れる。訪ねる。訪問する。③慰問する。見舞う。④探し求める。⑤追善供養する。冥福(めいふく)を祈る。

 

 もう一首の短歌もみてみよう。

 

◆御笠山 野邊往道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國

                 (笠金村 巻二 二三二)

 

≪書き下し≫御笠山(みかさやま)野辺行く道はこきだくも茂(しげ)り荒れたるか久(ひさ)にあらなくに

 

(訳)御笠山、この野辺を通る宮道は、どうしてこんなにもひどく荒れすさんでいるのであろうか。皇子が亡くなられてまだそんなに長くは経っていないのに。(同上)

(注)こきだし【幾許し】( 形シク ):程度がはなはだしい。非常に大切だ。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右歌笠朝臣金村歌集出」<右の歌は、笠朝臣金村(かさのあそみかさむら)が歌集に出づ>である。

 二三一、二三二歌の題詞は、「短歌二首」となっており、ふつうは、「反歌二首」であるので、後でみていく二三三、二三四歌を利用したために「短歌」としたものと思われる。

 

 続いて、題詞、「或本歌曰」<或本の歌に曰はく>とあり、二首が収録されているのでこちらもみておこう。この二首とも、志貴皇子が他界した直後の妻女ら遺族の歌らしいので、「作者未詳」としている。

 

◆高圓之 野邊乃秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武

                 (作者未詳 巻二 二三三)

 

≪書き下し≫高円(たかまど)野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲(しぬ)はむ

 

(訳)高円の野辺の秋萩よ、散らないでおくれ。いとしいあの方の形見と見ながらずっとお偲びしように。(同上)

 

三笠山 野邊従遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國

                 (作者未詳 巻二 二三四)

 

≪書き下し≫御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久(ひさ)にあらなくに

 

(訳)御笠山、この野辺を通る宮道は、こんなにもひどく荒れてしまいました。あの方が亡くなってからまだ時はいくらも経っていないのに。(同上)

 

 万葉集では、「皇子・皇女」の「薨時」の挽歌の題詞には、すべて、作者の名が記載されており、この志貴皇子の挽歌だけが、作者を明記しないで「笠朝臣金村歌集出」とされている。

 志貴皇子の葬送を知らない者がこのような挽歌を作るとは考えられない。皇子の生前をよく知っており、皇子の邸へもしばしば訪れていた人と考えられる。しかし、長歌二三〇歌は、作者である「知らない人」が葬送者の一人との問答という形式で詠われている。このような形式の挽歌であるためには、題詞に「作者名」を明記してしまうことは、ある意味興ざめとなると思われる。万葉集編者のなせる業とも思われるが、かかる「演出」にも万葉集の奥深さがみえてくるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「國文學 万葉集の詩と歴史」 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」