―その543―
●歌は、「紅はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほしかめやも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(46)にある。
●歌をみてみよう。
◆久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母
(大伴家持 巻十八 四一〇九)
≪書き下し≫紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも
(訳)見た目鮮やかでも紅は色の褪(や)せやすいもの。地味な橡(つるばみ)色の着古した着物に、やっぱりかなうはずがあるものか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)紅:紅花染。ここでは、遊女「左夫流子」の譬え
(注)橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ):橡染の着古した着物。妻の譬え
(注)つるばみ【橡】名詞:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。 ※ 古くは「つるはみ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「教喩史生尾張少咋歌一首并短歌」<史生(ししやう)尾張少咋(をはりのをくひ)を教へ喩(さと)す歌一首 并(あは)せて短歌>である。
左注は、「右五月十五日守大伴宿祢家持作之」<右は、五月の十五日に、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。
反歌は、四一〇七から四一〇九歌の三首である。
他の二首もみてみよう。
◆安乎尓与之 奈良尓安流伊毛我 多可々々尓 麻都良牟許己呂 之可尓波安良司可
(大伴家持 巻十八 四一〇七)
≪書き下し≫あをによし奈良にある妹(いも)が高々(たかたか)に待つらむ心しかにはあらじか
(訳)あの遠い奈良の家にいるお方が、高々(たかたか)と爪先立てて待っている心、その心のいじらしさ、妻の心とはそういうものではあるまいか。(同上)
(注)たかだかなり【高高なり】形容動詞:(待ち望んで)高く背のびをして見ている。(学研)
◆左刀妣等能 見流目波豆可之 左夫流兒尓 佐度波須伎美我 美夜泥之理夫利
(大伴家持 巻十八 四一〇九)
≪書き下し≫里人(さとびと)の見る目恥(は)づかし左夫流子(さぶるこ)にさどはす君が宮出(みやで)後姿(しりぶり)
(訳)里人の見る目を思うと、この私までが恥ずかしくなる。左夫流子に血迷っていられるあなたが、いそいそと退朝して行く後姿は。(同上)
(注)さどう ( 動ハ四 ):愛におぼれる。迷う。 → さどわす (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
大伴家持の歌日記といった形式になっている。
この三首でも強烈に、部下である尾張少咋(をはりのをくひ)を諭す気持ちが伝わって来る。単身赴任先で地元の女や遊女との恋に溺れるこの手の輩は、万葉の時代も今も変わらないのである。
本歌(四一〇六歌)ならびに、題詞の詳細は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その473)」に記しているので、そちらを参考にしてください。
―その544―
●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(47)にある。
●この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その495)」や「同315」で紹介している。ここでは、歌のみをみていく。
◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬
(大伴家持 巻十九 四一三九)
※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」
≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)
(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
この歌はの題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。
もう一首は、次の稿「その545」の歌である。
―その545―
●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(48)にある。
●歌をみていこう。
◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母
(大伴家持 巻十九 四一四〇)
≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも
(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(同上)
(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
家持は天平十八年(746年)から天平勝宝三年(751年)まで、越中国守ととして越中生活を送るのである。この間、中国文学や歌の勉強を行い歌人大伴家持が形成されていったといっても過言ではないといわれている。
―その546―
●歌は、「すめろきの遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこのほほがしは」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(49)にある。
●歌をみてみよう。
◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖
(講師僧恵行 巻十九 四二〇四)
≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)
(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。
(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。
(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
厚朴(ほおがしわ)は、今日のホホノキ、またはホオガシワノキ、ホオガシワを指している。落葉高木で、葉は大きく、若葉の頃は赤みを帯びている。
四二〇四、四二〇五歌の講師(国分寺の僧)である僧恵行と越中国守大伴家持とが同じ宴会で「ほほがしわ」を歌っての掛け合い的な歌二首が収録されているが、万葉集で、「ほほがしわ」を詠った歌はこの二首だけである。
万葉の頃は、広い大きい葉が好まれていた。たとえば蓮の葉、芋の葉、柏の葉など、ものを包むのに適した葉が多いのである。中でも、蓮の葉は、その葉に滴る水滴が銀色に輝くのを美しいと見たり、その葉を饌食(せんしょく)を盛る器の代わりに用いたりしていた。「ほほがしわ」の場合は、その大きい葉を枝とともに折り取って、まるで蓋(きぬがさ)だと楽しんでいたようである。
四二〇四、四二〇五歌の題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>である。
家持の歌もみてみよう。
◆皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寳我之波
(大伴家持 巻十九 四二〇五)
≪書き下し≫すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは
(訳)古(いにしえ)の天皇(すめらみこと)の御代御代(みよみよ)では、重ねて折って、酒を飲んだということですよ。このほおがしわは。(同上)
「蓋(きぬがさ)」は、上述の(注)にあったように、「絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。(学研)」
「儀制令」によると、三位以上の者はみな「蓋」を用いることになっており、一位は深緑色と決められていたので、「ほほがしは」の葉を持っているのを、一位の人の持つ「蓋」とほめたたえたのである。これに対し、家持は、葉を重ねて折って、酒を飲んだということですよ、と恵行の「よいしょ」をそらして、「ほほがしは」を讃えたのである。見事な切り返しである。
(注)儀制令(読み)ぎせいりょう:中国・日本の令の篇目(へんもく)。日本古代の大宝(たいほう)令、養老(ようろう)令には唐令を継受した儀制令が存する。養老令では第18篇全26条で、(1)天皇に関する規定(天皇・皇后・皇太子などの尊称、天皇への辞迎(じげい)・辞見、日食・服喪(ふくも)による廃朝・廃務、祥瑞(しょうずい))、(2)貴族・官人間の秩序に関する規定(元日拝賀の禁令、致敬(ちけい)・下馬・下坐(げざ)・動坐、儀戈(ぎか)・蓋(きぬがさ)・版位(へんい)、長官・本主の決罰権、国府での朝拝・拝賀)、(3)その他(婚姻の制限、国郡の五行器(ごぎょうき)の備用、春時祭田、服喪中の官人への制限、五等親、公文への年号の使用)などからなる。(コトバンク 日本大百科全書《ニッポニカ》)
万葉集と同様、あらためて大伴家持に惹かれて行く思いである。また大きな課題が見えて来た。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「万葉の小径 歌碑の説明文」