万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その563、564、565、敏馬神社番外編)―神戸市灘区岩屋中町 敏馬神社―万葉集 巻三 二五〇、巻六 一〇六五、巻六 一〇六六、巻三 四四九

―その563―

●歌は、「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ」である。

 

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神戸市灘区岩屋中町 敏馬神社万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、神戸市灘区岩屋中町 敏馬神社にある。

 

●この歌は、直近のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その560、561)」で紹介した「柿本朝臣人麻呂が羇旅の歌八首」の内の一首である。

歌をみていこう。

             

◆珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴

     一本云 處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼尓 伊保里為吾等者

               (柿本人麻呂 巻三 二五〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島(のしま)の崎に船近づきぬ

 一本には「処女(をとめ)を過ぎて夏草の野島が崎に廬(いほり)す我(わ)れは」といふ

 

(訳)海女(あま)たちが玉藻を刈る敏馬(みぬめ)、故郷の妻が見えないという名の敏馬を素通りして、はや船は夏草茂るわびしい野島の崎に近づきつつある。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもかる【玉藻刈る】分類枕詞:玉藻を刈り採っている所の意で、海岸の地名「敏馬(みぬめ)」「辛荷(からに)」「乎等女(をとめ)」などに、また、海や水に関係のある「沖」「井堤(ゐで)」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) 

(注)敏馬(みぬめ):神戸港の東、岩屋町付近。「見ぬ女」の意を匂わす。

 

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万葉ゆかりの地の碑

 

―その564―

●歌は、「八千桙の 神の御代より 百舟の 泊つる泊と 八島国 百舟人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦浪騒き 夕波に 玉藻は来寄る 白真砂 清き浜辺は 行き帰り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲ひけらしき 百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜」である。

 

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敏馬神社拝殿横万葉歌碑(田辺福麻呂 長歌

●歌碑は、神戸市灘区岩屋中町 敏馬神社にある。

 

●歌をみていこう

 

◆八千桙之 神乃御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風尓 浦浪左和寸 夕浪尓 玉藻者来依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人毎尓 語嗣 偲家良思吉 百世歴而 所偲将徃 清白濱

               (田辺福麻呂 巻六 一〇六五)

 

≪書き下し≫八千桙(やちほこ)の 神の御世(みよ)より 百舟(ものふね)の 泊(は)つる泊(とまり)と 八島国(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の 定(さだ)めてし 敏馬(にぬめ)の浦は 朝風(あさかぜ)に 浦浪騒(さわ)き 夕波(ゆふなみ)に 玉藻(たまも)は来寄る 白(しら)真砂(まなご) 清き浜辺(はまへ)は 行き帰り 見れども飽(あ)かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継(つ)ぎ 偲(しの)ひけらしき 百代(ももよ)経(へ)て 偲(しの)はえゆかむ 清き白浜

 

(訳)国造りの神、八千桙の神の御代以来、多くの舟の泊まる港であると、この大八島の国の国中の舟人が定めてきた敏馬の浦、この浦には、朝風に浦波が立ち騒ぎ、夕波に玉藻が寄って来る。白砂の清らかな浜辺は、行きつ戻りついくら見ても見飽きることはない。さればこそ、見る人の誰しもが、この浦の美しさを口々に語り伝え、賞(め)で偲んだのであるらしい。百代ののちまでも長く久しく、いとしまれてゆくにちがいない。この清らかな白砂の浜辺は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)やちほこのかみ【八千矛神】:大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)白真砂(読み)シラマナゴ:白いまさご。白砂。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)うべし【宜し】副詞:いかにももっとも。なるほど。 ※「し」は強意の副助詞。(学研)

(注)けらし 助動詞特殊型:《接続》活用語の連用形に付く。①〔過去の事柄の根拠に基づく推定〕…たらしい。…たようだ。②〔過去の詠嘆〕…たのだなあ。…たなあ。 ➡参考:(1)過去の助動詞「けり」の連体形「ける」に推定の助動詞「らし」の付いた「けるらし」の変化した語。(2)②は近世の擬古文に見られる。(学研)

 

 題詞は、「過敏馬浦時作歌一首并短歌」<敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌一首并せて短歌>である。

短歌は二首(一〇六六、一〇六七歌)である。

 

 

―その565―

●歌は、「まそ鏡敏馬の浦は百舟の過ぎて行くべき浜ならなくに」

 

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敏馬神社拝殿横万葉歌碑(田辺福麻呂 反歌

●歌碑は、神戸市灘区岩屋中町 敏馬神社の一〇六五歌の横にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆真十鏡 見宿女乃浦者 百船 過而可徃 濱有七國

              (田辺福麻呂 巻六 一〇六六)

 

≪書き下し≫まそ鏡敏馬(みぬめ)の浦は百舟(ももふね)の過ぎて行くべき浜ならなくに

 

(訳)よく映る鏡を見るというその敏馬の浦は、ここを通る舟という舟が素通りして行くことのできるような浜ではないのに。(同上) 

 

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田辺福麻呂歌碑(長歌反歌)解説案内板

 

反歌はもう一首あるのでそちらもみてみよう。

 

◆濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱

              (田辺福麻呂 巻六 一〇六七)

 

≪書き下し≫浜清み浦うるはしみ神代(かみよ)より千舟(ちふね)の泊(は)つる大和太(おほわだ)の浜(はま)

 

(訳)浜は清らかで、浦も立派なので、遠い神代の時から舟という舟が寄って来て泊まった大和太(おおわだ)の浜なのだ、ここは。(同上)

 

 左注は「右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也」<右の二十一首は、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が歌集の中に出づ>である。伊藤 博氏は、脚注で「この歌集の歌は福麻呂自身の作と見られる」と記されている。

 

「敏馬(みぬめ)」については、國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語事典」に次のように、詳細に書かれているので引用させていただきます。

「現在の神戸市灘区岩屋町一帯の海岸。摂津国風土記によると美奴売とは神の名で、神功皇后新羅へ出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされたところ、能勢の美奴売山の神様がこられ、わが山にある杉の木をきり船を造り新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りにすると大成功をおさめた。還る時この地で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心であるとお告げがあったことから美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上したとある。また敏馬の浦は百船の過ぎて往く(6-1064)と云われるような賑わった港であった。新羅からの使節来朝の折には、生田神社で醸した酒を敏馬浦において給したことが『延喜式』玄番寮に見えている。万葉集羈旅歌には柿本人麻呂が『珠藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の先に舟近づきぬ』(3-250)というように航路の道行きに詠み込まれる地名であり、また大伴旅人の『妹と来し敏馬の崎を還るさに独し見れば涙ぐましも』(3-449)や巻15の『属物発思』の歌に『敏馬=見(み)ぬ妻(め)』から妹への想いを引き出す地名としても詠み込まれる。この敏馬あたりが東西を分ける精神的地点であったのだろう。また『八千桙の 神の御世より 百船の 泊つる泊と 八島国 百船人の 定めてし 敏馬の浦は』(6-1065)とあり大国主・大汝の神話があったものか。」

 

 

―番外編―

●歌は、「妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも」である。

 

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木札に記された大伴旅人の万葉歌

●敏馬神社境内の木札に記されていた。

 

題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>である。四四六から四五〇歌までであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。そして、四四九、四五〇歌の二首の左注が。「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の埼を過ぐる日に作る歌>である。

 

歌をみていこう。

 

◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛

        (大伴旅人 巻三 四四九)

 

≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも

 

(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせる

 

 もう一首の方もみておこう。

 

◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪  <一云見毛左可受伎濃>

          (大伴旅人 巻三 四五〇)

 

≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも

 <一には「見もさかず来ぬ」といふ>

 

(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>

 

 なお、左注が、「右三首過鞆浦日作歌」の四四六から四四八歌の三首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

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敏馬神社鳥居と神社名碑

 

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敏馬神社拝殿

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敏馬神社参道(向かって右手に柿本人麻呂の歌碑と万葉ゆかりの地の碑がある)


 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタル・ミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク デジタル大辞泉