万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その582,583,584)―西田公園万葉植物苑(16,17,18)―万葉集 巻二十 四四四八、巻二十 四一四〇、巻一 二一

―その582―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

f:id:tom101010:20200708143630j:plain

西田公園万葉植物苑(16)万葉歌碑(橘諸兄


 

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(16)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その550)で紹介している。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

                (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

 

  題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」<同じき月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(たく)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

橘諸兄(684~757)は、奈良時代の政治家。皇族の出身で敏達天皇5世の子孫。天平八年、朝廷に請うて,母の氏姓橘宿禰姓を賜わり、名を諸兄と改めた。同九年大悪疫のため,藤原四卿 (武智麻呂、房前、宇合、麻呂) の死没後,大納言,右大臣と躍進し、全盛期を迎えた。しかし,天平末年以降藤原広嗣の乱恭仁京経営の失敗、権臣藤原仲麻呂の台頭によって、権勢は影をひそめていった。天平勝宝八年 (756) 官を辞し、失意のうちに没した。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 天平八年、朝廷に請うて,母の氏姓橘宿禰姓を賜わった時に、聖武天皇が詠われた歌が一〇〇九歌である。

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

               (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞

①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。

②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。

③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。

④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

 

左注は、「右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇ゝ后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇ゝ后御歌各有一首者其歌遺落未得探求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢」<右は、冬の十一月の九日に、従三位葛城王従四位上佐為王等(さゐのおほきみたち)、皇族の高き名を辞(いな)び、外家(ぐわいか)の橘の姓を賜はること已訖(をは)りぬ。その時に、太上天皇(おほきすめらのみこと)・皇后(おほきさき)、ともに皇后の宮に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)をなし、すなはち橘を賀(ほ)く歌を御製(つく)らし、并(あは)せて御酒(みき)を宿禰等(すくねたち)に賜ふ。或(ある)いは「この歌一首は太上天皇の御歌。ただし、天皇・皇后の御歌おのもおのも一首あり」といふ。その歌遺(う)せ落(お)ちて、いまだ探(たづ)ね求むること得ず。今案内(あんない)に検(ただ)すに、「八年の十一月の九日に、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日をもちて、表の乞(ねがひ)によりて橘宿禰を賜ふ」。と>

 

 

 

―その583―

●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。

 

f:id:tom101010:20200708143832j:plain

西田公園万葉植物苑(17)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(17)にある。

 

●歌をみていこう。この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その497)」他で紹介している。

 

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母

              (大伴家持 巻二〇 四一四〇)

 

≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

家持は天平十八年(746年)から天平勝宝三年(751年)まで、越中国守ととして越中生活を送るのである。この間、中国文学や歌の勉強を行い歌人大伴家持が形成されていったといっても過言ではないといわれている。

 

題詞は、「天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首」<天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る二首>である。四一三九、四一四〇歌の二首である。四一三九歌は「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。いずれも、家持が目の前の実景を踏まえて詠んだ歌と言うより「漢詩的風景」を頭の中に描き詠んだものと思われる。

 

家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である先のブログ(その582)で述べた橘諸兄の命によるものであった。

 家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進するが、帰京後は、橘氏藤原氏との抗争に巻き込まれ、台頭してきた藤原氏の大伴氏に対する圧迫に晒される日々となって来たのである。

 家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとし、「族(やから)に喩(さと)す歌(巻二十 四四六五~四四六七歌)などを詠んだが、流れに抗すことはできなかったのであある。

 

 

 

―その584―

●歌は、「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」である。

 

f:id:tom101010:20200708144015j:plain

西田公園万葉植物苑(18)万葉歌碑(大海人皇子

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(18)にある。

 

●歌をみていこう。この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その171)」「同234」「同258」他でも紹介している。

 

◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

               (大海人皇子 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇 謚日天武天皇」<皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまふ御歌 明日香(あすか)の宮に天の下知らしめす天皇、謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>である。

(注)皇太子:大海人皇子(後の天武天皇

 

 左注は、「紀日 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉」<紀には「天皇の七年丁卯(ひのとう)の夏の五月の五日に、蒲生野(かまふの)に縦猟(みかり)す。時に大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)、内臣(うちのまへつかさ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)に従(おほみとも)なり」といふ>である。

 

 大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足は娘を二人大海人皇子に嫁がしている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その158)」で天武天皇と藤原夫人との掛け合い的な歌(小原神社万葉歌碑)について書いている。

 

 天智天皇は、近江大津宮で、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)との間に生まれた大友皇子を皇太子にしたのである。古代において母親の出自(しゅつじ)が良くないと人々が支持しないのである。一方、大海人皇子は人望がある。天智天皇大友皇子を皇太子として藤原鎌足を中軸に微妙な力のバランスをとっていたのである。しかし、天智天皇八年十月に鎌足が亡くなり均衡が破れたのは言うまでもない。火種はくすぶりやがて壬申の乱となっていくのである。

 

 額田王大海人皇子との間に十市皇女をもうけている。その後、近江大津宮天智天皇後宮に入られているという。

 二十一歌は、天智天皇七年の「遊猟(みかり)」の時に、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌に大海人皇子が答えた歌である。

 

 歴史的な背景を頭に入れ、この二首を読み返せば読み返すほど、このような歌が万葉集に収録されていることが不思議にさえ思われてくる。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「大伴家持の生涯と万葉集」 (高岡市万葉歴史館HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」