万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その585,586,587)―西田公園万葉植物苑(19,20,21)―万葉集 巻九 一七三〇、巻六 九二五、巻五 八二九

―その585―

●歌は、「山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ」である。

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西田公園万葉植物苑(19)万葉歌碑(藤原宇合


 

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(19)にある。

                            

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その553)」で紹介している。

 

◆山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武

               (藤原宇合 巻九 一七三〇)

 

≪書き下し≫山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ

 

(訳)山科の石田の小野のははその原、あの木立を見ながら、あの方は今頃独り山道を越えておられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)石田:京都府山科区の南部

(注)ははそ【柞】名詞:なら・くぬぎなど、ぶな科の樹木の総称。紅葉が美しい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

一七二九から一七三一歌の題詞は、「宇合卿歌三首」<宇合卿(うまかひのまへつきみ)が歌三首>であり、このうちの一首である。

 

石田の杜(いわたのもり)は、京都市伏見区石田森西町にある天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で、現在は「いしだ」と言われているが、古代は“いわた”と呼ばれた。大和と近江を結ぶ街道が通り、道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所であった。

 

 古代、街道であったことが分かる歌(三二三六歌)をみてみよう。

 

◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠

               (作者未詳 巻十三 三二三六)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 岡屋(をかのや)の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠(か)くることなく 万代(よろづよ)に あり通(がよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を

 

(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)

(注)奈良山 分類地名:今の奈良市の北方の丘陵。この山を越える奈良坂は古代から交通の要路であった。「平城山」とも書く。(学研)

(注)管木(つつき)の原:今の京都府綴喜郡

(注)ちはやぶる【千早振る】分類枕詞:①荒々しい「氏(うぢ)」ということから、地名「宇治(うぢ)」にかかる。②荒々しい神ということから、「神」および「神」を含む語、「神」の名、「神社」の名などにかかる。(学研)

(注)岡屋:宇治市宇治川東岸の地名。宇治市立岡屋小学校がある。

(注)すめかみ 皇神:国土を守護する神霊。「志賀のすめ神」(7-123)、「石田の杜の すめ神に」(13-3236)、「すめ神の 領(し)きいます 新川の」(17-4000)等、山川や地名・国名に連ねて用いられる。(國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語事典)

(注)逢坂山(読み)おうさかやま:大津市京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

 奈良山から宇治、山科の石田の杜を経て逢坂山に至る街道に沿った地名が詠み込まれている、ある意味、万葉時代の街道資料的な歌である。

 

 

 

―その586―

●歌は、「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」である。

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西田公園万葉植物苑(20)万葉歌碑(山部赤人


 

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑    (20)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その125)」、「同344」で紹介している。

 

題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌反歌二首であり、後群は天皇を讃える長歌反歌一首という構成をなしている。歌群全般については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その125)でふれている。 

 

◆烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

               (山部赤人 巻六 九二五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)の更けゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く

 

(訳)ぬばたまの夜が更けていくにつれて、久木の生い茂る清らかなこの川原で、千鳥がちち、ちちと鳴き立てている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ぬばたま:黒い玉の意で、ヒオウギの花が結実した黒い実をいう。ヒオウギはアヤメ科の多年草で、アヤメのように、刀形の葉が根元から扇状に広がっている。この姿が、昔の檜扇に似ているのでこの名がつけられたという。

(注)ひさぎ:植物の名。キササゲ、またはアカメガシワというが未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

 

万葉集では、植物としてのヒオウギを詠んだ歌は無く、その実が黒いことから、黒、夜、闇、夕、髪などにかかる枕詞として六十二首に詠われている。

 

 

―その587―

●歌は、「梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや」である。

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西田公園万葉植物苑(21)万葉歌碑(張氏福子)


 

●歌碑は、西宮市西田町西田公園万葉植物苑(21)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その485)」他でも紹介している。「令和」の原典となった、この歌を含む三十二首の歌群の題詞は、「梅花歌卅二首幷序」<梅花(ばいくわ)の歌三十二首幷せて序>であり、序についても解説している。

 

◆烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆那 都伎弖佐久倍久 奈利尓弖阿良受也 <藥師張氏福子>

               (張氏福子 巻五 八二九)

 

≪書き下し≫梅の花咲きて散りなば桜花(さくらばな)継(つ)ぎて咲くべくなりにてあらずや <薬師張氏福子(くすりしちやうじのふくじ)>

 

(訳)梅の花が咲いて散ってしまったならば、桜の花が引き続き咲くようになっているではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)薬師張氏福子:大宰府の医師。

 

この歌は、大宰府の師(そち)宅で、咲き揃った梅を見つつの宴で歌われたもので、一座の人たちが、ひとしきり梅を愛でたのを受けて、いやいや梅だけでなく、梅の後には桜が咲くから、その時にも楽しい宴を持ちましょうと歌ったものである。

 

 梅は、万葉の時代に中国から渡来したものである。

当時の知識層に漢文学漢詩等を積極的に学ぶ風潮があり、大宰の帥、大伴旅人漢文学等に傾倒していた。万葉集巻五は旅人と憶良を中心とした歌の構成になっており、漢詩や漢文の序、手紙などと共に歌があるのである。従って歌は、その「倭」らしさを出すためにも、一字一音仮名表記になっているのである。

 梅を愛でる宴で、日本古来の「桜」にも言及しているこの歌自体に当時の「漢倭併用」的考えが根底にあったのではないかとも考えられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語事典」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉