万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その594,595,596)―西田公園万葉植物苑(29,30,31)―万葉集 巻二 一三三、巻二〇 四五一二、巻五 七九八

―その594―

●歌は、「笹の葉はみ山もさやにさやけども我は妹思ふ別れ来ぬれば」である。

 

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西田公園万葉植物苑(29)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、西田公園万葉植物苑(29)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その307)」で紹介している。

 

◆小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆

               (柿本人麻呂 巻二 一三三)

 

≪書き下し≫笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我(わ)れは妹思ふ別れ来(き)ぬれば

 

(訳)笹の葉はみ山全体にさやさやとそよいでいるけれども、私はただ一筋にあの子のことを思う。別れて来てしまったので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども」は、高角山の裏側を都に向かう折りの、神秘的な山のそよめき

 

この歌は、題詞、「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国より妻に別れて上(のぼ)り来(く)る時の歌二首并(あは)せて短歌>の反歌二首の一首である。

 

一三一~一三九歌は、「石見相聞歌」と呼ばれる長歌二首の大きな歌群である。

 

石見の国を旅立つにあたり、国境あたりの山での感慨であり、周囲のささの葉のざわめきに対して、残してきた妻をひたすら思う沈潜した気持ちとの対比が、より妻を思う気持ちを強く感じさせているのである。

 

 三句の「乱友」は「さやげども」が定番になっているが、仙覚は「みだれども」と賀茂真淵は「さわげども」と訓んでいた。茂吉は「ささ、みやま、さや、みだれ」と、サ音とミ音の両方で調子をとっていると仙覚説をおしていた。

 

 

 

―その595―

●歌は、「池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入れな」である。

 

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西田公園万葉植物苑(30)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、西田公園万葉植物苑(30)にある。

                           

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その475)」で紹介している。

 

◆伊氣美豆尓 可氣佐倍見要氐 佐伎尓保布 安之婢乃波奈乎 蘇弖尓古伎礼奈

               (大伴家持 巻二〇 四五一二)

 

≪書き下し≫池水(いけみづ)に影さえ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱(こき)いれな

 

(訳)お池の水の面に影までくっきり映しながら咲きほこっている馬酔木の花、ああ、このかわいい花をしごいて、袖の中にとりこもうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)こきいる【扱き入る】他動詞:しごいて取る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

アセビは、常緑低木で、特に早春白い小さな袋状の花を、木から溢れるように垂れ咲かせる。万葉集にはアシビは、馬酔または馬酔木とも書かれ、この木の持つ毒性がすでに知られていたようである。大伴家持はこの馬酔木の花の美とそれが池に映っている美と、いわば二重の美を歌い、さらに、その美しさを自分の袖の中に入れて、直接、花の美を自分の身体に染み込ませようとしたのである。

 

 四五一一から四五一三歌の歌群の題詞は、「属目山斎作歌三首」<山斎(しま)を属目(しよくもく)して作る歌三首>である。

(注)しょくもく【嘱目・属目】( 名 ):① 人の将来に期待して、目を離さず見守ること。② 目に入れること。目を向けること。③ 俳諧で、即興的に目に触れたものを吟ずること。嘱目吟。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版) ここでは③の意

(注)しま【島】名詞:①周りを水で囲まれた陸地。②(水上にいて眺めた)水辺の土地。③庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。 ※「山斎」とも書く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 馬酔木を詠った歌といえば、題詞「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>のうちの一六六歌をあげないわけにはいかない。

 「磯の上に生(お)ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在(あ)りと言はなくに」(訳:岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折りたいと思うけれども、これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないのではないか。 伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 一六五歌の「うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我れ見む」ともども、馬酔木の花、二上山という目の前の実景を基軸に今は亡き弟のことを哀傷(かな)しむ思いの深さ、重さがひしひしと伝わって来るのである。

 

 

―その596―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

 

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西田公園万葉植物苑(31)万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、西田公園万葉植物苑(31)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その489)」他で紹介している。

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

                   (山上憶良 巻五 七九八)

 

≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

この歌は、憶良自身の妻の死を歌ったものではないようだ。妻が亡くなって、悲しみに沈んでいた旅人に代わって、憶良が、まるで自分の妻の死を悲しむかのように歌ったものである。

 憶良は、伯耆守(ほうきのかみ)として赴任していた時に妻を亡くしているのである。

 

  大宰帥大伴旅人は、憶良より三歳年下であるが、大宰府に赴任してまもなく、神亀五年、妻大伴郎女を失ったのである。

 この歌をきっかけに、憶良と旅人の歌を介しての結びつきが深まり、「筑紫歌壇」という言葉があるように、ひとつの「歌壇」が「筑紫」に誕生していったといっても過言ではないようである。

 万葉集巻五は、旅人と憶良の歌が中心に、しかも旅人の大宰府在任期間とほぼ同じ神亀五年(728年)から天平五年(733年)という短い期間に集約され編纂されている。これをみても、あたかも大宰府における歌壇活動が、都を凌駕する感が強かったといえるほどである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉の恋歌」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「太陽 特集万葉集 №168」 (平凡社

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」