―その613―
●歌は、「縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山になびく」である。
●歌をみていこう。
◆縄乃浦尓 塩焼火氣 夕去者 行過不得而 山尓棚引
(日置少老 巻三 三五四)
≪書き下し≫縄(なは)の浦に塩(しお)焼く煙(けぶり)夕されば行き過ぎかねて山になびく
(訳)縄の浦で塩を焼いている煙、その煙は、夕なぎの頃になると、流れもあえず山にまつわりついてたなびいている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「日置少老歌一首」<日置少老(へきのをおゆ)が歌一首>である。
(注)日置少老(へきのをおゆ):伝未詳
―その614―
●歌は、「縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣りしすらしも」である。
●歌をみていこう。
◆縄浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下
(山部赤人 巻三 三五七)
≪書き下し≫縄(なは)の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕(こ)ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも
(訳)縄の浦からうしろに見える沖合の島、その島のあたりを漕ぎめぐっている舟は、まだ釣りをしているまっ最中らしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)らし(読み)助動 活用語の終止形、ラ変型活用語の連体形に付く。:① 客観的な根拠・理由に基づいて、ある事態を推量する意を表す。…らしい。…に違いない。②根拠や理由は示されていないが、確信をもってある事態の原因・理由を推量する意を表す。…に違いない。 [補説]語源については「あ(有)るらし」「あ(有)らし」の音変化説などがある。奈良時代には盛んに用いられ、平安時代には1の用法が和歌にみられるが、それ以後はしだいに衰えて、鎌倉時代には用いられなくなった。連体形・已然形は係り結びの用法のみで、また奈良時代には「こそ」の結びとして「らしき」が用いられた(コトバンク デジタル大辞泉)
題詞は、「山辺宿祢赤人歌六首」<山辺宿禰赤人が歌六首>である。
他の五首もみてみよう。
◆武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
(山部赤人 巻三 三五八)
≪書き下し≫武庫(むこ)の浦を漕ぎ廻(み)る小舟(をぶね)粟島(あはしま)をそがひに見つつ羨(とも)しき小舟(をぶね)
(訳)武庫の浦を漕ぎめぐって行く小船よ。妻に逢えるという粟島をうしろに見ながら都の方へ漕いで行く、ほんとうに羨ましい小舟よ。(同上)
(注)武庫の浦:武庫川の河口付近
◆阿倍乃嶋 宇乃住石尓 依浪 間無比来 日本師所念
(山部赤人 巻三 三五九)
≪書き下し≫阿倍(あへ)の島鵜(う)の住む磯(いそ)に寄する波間(ま)なくこのころ 大和(やまと)し思ほゆ
(訳)阿倍の島の鵜の棲む荒磯に寄せて来る波、その波のように、この頃はしきりに大和が偲ばれる。(同上)
(注)阿倍の島:所在未詳
(注)上三句は序。「間なく」を起こす。
◆塩干去者 玉藻苅蔵 家妹之 濱▼乞者 何矣示
※ ▼は「果」の下に「衣」で「づと」
(山部赤人 巻三 三六〇)
≪書き下し≫潮干(しほひ)なば玉藻刈りつめ家の妹(いも)が浜づと乞(こ)はば何を示さむ
(訳)潮が引いたらせっせと玉藻を刈り集めておきなさい。家に待ついとしい子が浜の土産を乞い求めたなら、この玉藻のほかに何も見せるものはないのだから。(同上)
(注)つむ【集む】他動詞:集める。(学研)
(注)つと【苞・苞苴】名詞:①食品などをわらで包んだもの。わらづと。②贈り物にする土地の産物。みやげ。(学研) ※ここでは②の意
◆秋風乃 寒朝開乎 佐農能岡 将超公尓 衣借益矣
(山部赤人 巻三 三六一)
◆秋風の寒き朝明(あさけ)を佐農(さぬ)の岡(おか)越ゆらむ君に衣(きぬ)貸さましを
(訳)秋風の吹くこんな寒い明け方なのに、佐農の岡を今頃は越えているであろうあなた、そのあなたに私の着物をお貸ししておけばよかった。(同上)
(注)佐農の岡:所在未詳
この三六一歌は、陸行の歌。旅先で出会った優しい心根の女の歌として披露したものか。
参考:宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに(巻一 七五 長屋王)
◆美沙居 石轉尓生 名乗藻乃 名者告志弖余 親者知友
(山部赤人 巻三 三六二)
≪書き下し≫みさご居(ゐ)る磯(いそ)みに生(お)ふるなのりその名は告(の)らしてよ親は知るとも
(訳)みさごの棲んでいる荒磯に根生えているなのりそではないが、名告ってはいけない名前、その名は大切だろうが名告っておくれ。たとえ親御は気付いても。(同上)
(注)みさご【鶚・雎鳩】名詞:鳥の名。猛禽(もうきん)で、海岸・河岸などにすみ、水中の魚を捕る。岩壁に巣を作り、夫婦仲がよいとされる。(学研)
(注)上三句は序。「名」を起こす。
(注)なのりそ 名詞:海藻のほんだわらの古名。正月の飾りや、食用・肥料とする。(学研)➡「勿告りそ」の意を懸ける。
(注)名は告らしてよ:旅先の女に求婚したことを意味する。三六一歌を承けたかたち。
続いて題詞「或本歌曰」<或る本の歌に日はく>がある。こちらもみてみよう。
三六二歌の異伝である。
◆美沙居 荒礒尓生 名乗藻乃 吉名者告世 父母者知友
≪書き下し≫みさご居る荒磯(ありそ)に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも
(訳)みさごの棲んでいる荒磯に根生えているなのりそではないが、名告ってはいけない名前、その名は大切だろうが、えいままよ名告っておくれ。たとえ親御は気付いても。(同上)
(注)よし【縦し】副詞:仕方がない。ままよ。どうでも。まあよい。 ▽「よし」と仮に許可するの意。(学研)
また、三〇七七歌も似ている。「みさご居る荒磯(ありそ)に生ふるなのりそのよし名は告らじ親は知るとも(作者未詳)」である。
「なのりそ」は今でいう褐藻類のホンダワラのことである。万葉の時代は、藻は食用としてだけではなく、塩を作る時にも利用されるなど身近なものであったようである。「名告り」
を求めることが求婚を、それに答えることは結婚の承諾を意味した当時の男女にとって「名告り」を懸けた「なのりそ」は特別な藻であったのだろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」