万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その616、617)―高砂市曽根 曽根天満宮―万葉集 巻十二 三一六四、巻十五 三七一八

―その616―

●歌は、「室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも」である。

 

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高砂市曽根 曽根天満宮万葉歌碑(作者未詳)<写真中央>

●歌碑は、高砂市曽根 曽根天満宮にある。

 

●歌をみていこう

 

◆室之浦之 瑞門之埼有 鳴嶋之 磯越浪尓 所沾可聞

               (作者未詳 巻十二 三一六四)

 

≪書き下し≫室(むろ)の浦(うら)の瀬戸(せと)の崎(さき)なる鳴島(なきしま)の磯(いそ)越す波に濡れにけるかも

 

(訳)室の浦の瀬戸の崎にある鳴島、その島の泣く涙だというのか、磯を越す波にすっかり濡れてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)室の浦:兵庫県たつの市御津町

(注)鳴島:「泣く島」を懸ける。

 

相生市HP「万葉の岬」には、この歌に関して「『室の浦』は室津藻振鼻から金ヶ崎にかけての湾入。『鳴島』は金ヶ崎眼下の君島、金ヶ崎と鳴島の間が『湍門』、磯波のしぶきに濡れる舟行旅愁の歌。」と解説が記されている。

 

 

―その617―

●歌は、「家島は名にこそありけれ海原を我が恋ひ来つる妹もあらなくに」である。

 

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高砂市曽根 曽根天満宮万葉歌碑(遣新羅使人)<写真右端>

●歌碑は、高砂市曽根 曽根天満宮にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊敝之麻波 奈尓許曽安里家礼 宇奈波良乎 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久尓

               (遣新羅使人 巻十五 三七一八)

 

≪書き下し≫家島(いへしま)は名にこそありけれ海原(うなはら)を我(あ)が恋ひ来つる妹(いも)もあらなくに

 

(訳)家島とは名ばかりであった。はるかなる海原を私が恋い焦がれながらやって来た、そのいとしき人もいはしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「廻来筑紫海路入京到播磨國家嶋之時作歌五首」<筑紫(つくし)を廻(めぐ)り来て、海路(かいろ)にして京(みやこ)に入らむとし、播磨(はりま)の国の家島(いへしま)に到りし時に作る歌五首>である。

 

 他の四首もみてみよう。

 

◆久左麻久良 多婢尓比左之久 安良米也等 伊毛尓伊比之乎 等之能倍奴良久

               (遣新羅使人 巻十五 三七一九)

 

≪書き下し≫草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経(へ)ぬらく

 

(訳)草を枕の旅なんかにそんなに長くいるものかとあの子に言って出かけたのに、何と年を越してしまった。(同上)

(注)年の経(へ)ぬらく:出発は、天平八年(736年)6月、秋には戻る予定であったが、翌年の1月であった。

 

◆和伎毛故乎 由伎弖波也美武 安波治之麻 久毛為尓見延奴 伊敝都久良之母

               (遣新羅使人 巻十五 三七二〇)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)を行きて早(はや)見む淡路島(あはぢしま)雲居(くもゐ)に見えぬ家(いへ)づくらしも

 

(訳)ああ、我がいとしき人よ、早く帰って顔を見たい。逢うという名の路島が雲の彼方に見えてきた。いよいよ家に近づいたのだ。(同上)

 

◆奴婆多麻能 欲安可之母布弥波 許藝由可奈 美都能波麻末都 麻知故非奴良武

               (遣新羅使人 巻十五 三七二一)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)明(あか)しも船は漕ぎ行かな御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ

 

(訳)ぬばたまの夜、この、夜を明かしてでも船は漕いで行こう。御津の浜辺の松、あのも、今頃、われらの帰りを待ち焦がれているだろう。(同上)

(注)御津 分類地名:今の大阪市にあった港。難波(なにわ)の御津、大伴(おおとも)の御津ともいわれた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆大伴乃 美津能等麻里尓 布祢波弖ゝ 多都多能山乎 伊都可故延伊加武

               (遣新羅使人 巻十五 三七二二)

 

≪書き下し≫大伴(おほとも)の御津(みつ)の泊(とま)りに船泊(は)てて竜田(たつた)の山をいつか越え行(ゆ)かむ

 

(訳)大伴の御津の港に船を着けて、龍田の山を越え、いつ、懐かしい大和へ行き着けることだろうか。(同上)

 

 巻十五は特異な構成になっている。遣新羅使人等に関わる歌群(三五七八から三七二二歌まで、一四五首)と、中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の間で取り交わされた贈答歌群(三七二三から三七八五歌、六三首)の二つの大きな歌群から構成されている。

 

 ここでは、前者の遣新羅使人等に関わる歌群についてみてみよう。

 一四五首のうち、「帰路」に関する歌は、題詞、「廻来筑紫海路入京到播磨國家嶋之時作歌五首」(三七一八から三七二二歌)にある歌だけである。このことが、この回の遣新羅使人等の航海のすさまじさを物語っていると言えよう。

 また、「帰路」の歌にせよ、難波の港に帰着した、あるいは、「家」に帰ったという、困難な行路であっただけに、喜びも爆発的と思われるが、播磨の国の「家島」での歌がまとめとなっている。

 そこで、この歌群が、歌によって構成された「ドキュメンタリー」という見方もされている。随行者の中の「書記官」がその時々の歌を集め、編集したとも考えられる。「記録」され何らかの形でまとめられたものが、万葉集に収録されたのか、個々の資料が集められ万葉集の編纂者によって巻十五にまとめられ収録されたのかはうかがい知ることはできないが、ある意味、すさまじいドラマがそこにあるというのが万葉集の、包容力であるように思える。

 「万葉集」って何なのだと、改めて考えさせられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「万葉の岬」 (相生市HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」