―その621―
●歌は、「印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし」である。
●歌をみていこう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その481)」他で紹介している。
◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之
(安宿王 巻二〇 四三〇一)
≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし
(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)
播磨国守であった安宿王は、平城京における宴席の場で、おそらくは宮中の祭祀にも使われたであろう「稲見野のあから柏」を歌って、一層天皇をたたえているのである。
この歌の題詞は、「七日天皇太上天皇皇太后在於東常宮南大殿肆宴歌一首」<七日に、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、皇太后(おほきさき)、東(ひむがし)の常宮(つねのみや)の南の大殿に在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふ歌一首>とあり、左注は、「右一首播磨國守安宿王奏 古今未詳」<右の一首は、播磨(はりま)の国(くに)の守(かみ)安宿王(あすかべのおほきみ)奏(まを)す。 古今未詳>とある。
(注)天皇、太上天皇、皇太后:孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后
―その622―
●歌は、「香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見にこし印南国原」である。
●歌をみていこう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その64)」で紹介している。
◆高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
(中大兄皇子 巻一 一四)
≪書き下し≫香具山と耳成山と闘(あ)ひし時立ちて見に来(こ)し印南国原(いなみくにはら)
(訳)香具山と耳成山とが妻争いをした時、阿菩大神(あぼのおおみかみ)がみこしをあげて見にやって来たという地だ、この印南国原は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)立ちて見に来し:御輿をあげて見に来たという
(注)印南国原:明石から加古川あたりにかけての平野
(注)阿菩大神(あぼのおおみかみ):出雲系神話の神。大和(やまと)三山の妻争い神話で、仲裁に出雲から大和へ行く途中、いさかいが終わったことを聞き、播磨(はりま)国揖保(いぼ)郡上岡の里に鎮座したという。「播磨国風土記」に見える。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)
一三(長歌)と一四、一五歌(反歌)の歌群の題詞は、「中大兄近江宮御宇天皇三山歌」<中大兄(なかのおほえ)近江の宮に天の下しらしめす天皇の三山の歌>である。
長歌をみてみよう。
◆高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相格良思吉
(中大兄皇子 巻一 十三)
≪書き下し≫香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)を惜(を)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
(訳)香具山は、畝傍をば失うには惜しい山だと、耳成山と争った。神代からこんな風であるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取りあって争うのであるらしい。(伊藤 博著「萬葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)畝傍(うねび)を惜(を)しと:畝傍を失うのは惜しいと。香具山・耳成山が男山、畝傍山が女山。
(注)古も:現在にずっと続いている過去
(注)しか【然】副詞:そう。そのとおり。そのように。▽先に述べた事柄をさす。(学研)
「雲根火雄男志等」を「畝傍を愛(を)し」と読むか「畝傍雄々し」と読むかの議論があり、一般には「を愛(を)し」と読まれることが多いが、伊藤博氏は「畝傍(うねび)を惜(を)し」と読まれている。
「を愛(を)し」と読むか「畝傍雄々し」と読むかで、三山の男山、女山の見立てが変わって来る。
どの山が男で、どの山が女かについても諸説がある。堀内民一著「大和万葉―その歌の風土」(創元社)に詳しいので列挙してみる。
【仙覚説】香具山は女山。最初、香具山は耳梨の男山に心寄せていたが、畝火の男らしい姿に惹かれるようになった。「相あらそひき」は、耳梨山をおろそかにして、畝火山にひかれようとする香具山と、それを阻止して元通り自分に靡かせようとする耳梨山との争いだとする。
【契沖説】男山、女山の分け方は仙覚と同じだが、初句を「香具山をば」と解釈し、女山の香具山を得ようと、「畝火のををしき」と耳梨山とが争ったことになる。そして、畝火山の雄々しさが、この場合はかえって、荒々しさとして、山山から嫌悪される理由になる。反歌では、香具山と耳梨山が逢ったことになる。
【木下幸文説】畝火山を女山とする説。「雄男志」は、「を愛(を)し」の意の仮名とする解釈。武田祐吉、斎藤茂吉博士同説。
【折口信夫説】女山の香具山と耳梨山とが、の畝火山を争ったとみる。女同士の夫(つま)争いである。沢潟久博士も同説。
【下河辺長流説】人間界の女を三つの男山同士が争ったとする。土屋文明氏はこの説をとっている。
もう一首の反歌をみておこう。
◆渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曽
(中大兄皇子 巻一 一五)
≪書き下し≫海神(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)さし今夜(こよい)の月夜(つくよ)さやけくありこそ
(訳)海神(わたつみ)のたなびかしたまう豊旗雲(とよはたくも)に、今しも入日(いりひ)がさしている。おお、今宵の月世界は、まさしくさわやかであるぞ。
(注)わたつみ【海神】名詞:①海の神。②海。海原。 ※参考 「海(わた)つ霊(み)」の意。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。後に「わだつみ」とも。(学研)
(注)とよはたくも【豊旗雲】名詞:旗のようになびく美しい雲。「とよはたぐも」とも。(学研)
左注は、「右一首歌今案不似反歌也 但舊本以此歌載於反歌 故今猶載此次亦紀日 天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子」<右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。ただし、旧本、この歌をもちて反歌に載(の)す。この故(ゆゑ)に、今もなほこの次(つぎて)に載す。また、紀には「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)の四年乙巳(きのとみ)に、天皇を立てて皇太子(ひつぎのみこ)となす」といふ。>である。
(注)天豊財重日足姫天皇:斉明天皇の名 ※斉明天皇:第37代の天皇(女帝)(在位665~661年)第35代皇極天皇(在位642~645年)の重祚(ちょうそ)
(注)先の四年:皇極天皇の四年(645年)
中大兄皇子は大化の改新のあといわば強引な政治路線を突っ走るのである。百済の要請に基づき、朝鮮出兵を行うも天智二年(663年)白村江の戦いで敗れ日本の危機と言うべき事態を将来したのである。
この時期は、万葉集の歌人と言う点から見れば、大きな転機を迎えることになるのである。
斉明七年(六六一年)、朝鮮出兵は斉明天皇自ら出陣となる。この船団には、中大兄皇子、大海人皇子をはじめ、大海人皇子の后である大田皇女、妹の鸕野讃良(うのささら)皇女(後の持統天皇)の顔ぶれもそろっていたのである。
この船団が吉備の大伯(岡山県)の海を通過している時に、大田皇女は大伯皇女を生むのである。そして、熟田津(にぎたづ:愛媛県松山市)に立ち寄り、船出に際して、額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻一 八)」を詠うのである。
歌碑の「中大兄三山歌」もこの航海の中で詠われたと言われている。
悲劇の大津皇子の事件、壬申の乱等々、この船団から歴史が動き、万葉集の歌が発せられていっても過言ではない。
百済滅亡によって、多くの要人が日本に亡命し、天智朝廷における各方面の文化的側面で大きく貢献したことも万葉集へ与えた影響も少なくない。万葉集が動き出した時期といえるだろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―そのうたの風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「万葉の大和路」 犬養 孝/文・入江泰吉/写真 (旺文社文庫)
★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」