―その645―
●歌は、「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得牟可も我がやどの萩」である。
●歌をみていこう。
◆朝霧之 多奈引田為尓 鳴鴈乎 留得哉 吾屋戸能波義
(光明皇后 巻十九 四二二四)
≪書き下し≫朝霧(あさぎり)のたなびく田居(たゐ)に鳴く雁(かり)を留(とど)め得むかも我が宿の萩(はぎ)
(訳)朝霧のたなびく田んぼに来て鳴く雁、その雁を引き留めておくことができるだろうか、我が家の庭の萩は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
左注は。「右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳 十月五日河邊朝臣東人傳誦云尓」<右の一首の歌は、吉野の宮に幸(いで)ます時に、藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)作らす。 ただし、年月いまだ審詳(つばひ)らかにあらず。 十月の五日に、河邊朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)、伝誦(でんしょう)してしか云ふ>である。
(注)伝誦(でんしょう)( 名 ):語り伝えること。(Weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)
光明皇后の歌は、万葉集には三首収録されている。他の2首をみてみよう。
題詞は、「藤皇后奉天皇御歌一首」<藤皇后(とうくわうごう)、天皇に奉(たてまつ)る御歌一首>である。
◆吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思
(光明皇后 巻八 一六五八)
≪書き下し≫我が背子と(せこ)ふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉(うれ)しくあらまし
(訳)我が夫(せ)の君と二人一緒に見ることができましたら、どんなにか、この降り積もる雪が嬉しく思われるでしょうに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「春日祭神之日藤原太后御作歌一首 即賜入唐大使藤原朝臣清河 衆議従四位下遣唐使」<春日(かすが)にして神を祭る日に、藤原太后(ふぢはらのおほきさき)の作らす歌一首 すなはち入唐大使(にふたうたいし)藤原朝臣清河(ふぢはらのあそみきよかは)に賜ふ 参議従四位下遣唐使>である。
◆大船尓 真梶繁貫 此吾子乎 韓国邊遣 伊波敝神多智
(光明皇后 巻十九 四二四〇)
≪書き下し≫大船(おほぶね)に真楫(まかぢ)しじ貫きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣(や)る斎(いは)へ神(かみ)たち
(訳)大船の舷(ふなばた)の右にも左にも櫂(かい)をいっぱい取り付けてやり、このいとし子を、唐国(からくに)へ遣わします。守らせたまえ、神たちよ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)まかぢ【真楫】名詞:楫の美称。船の両舷(りようげん)に備わった楫の意とする説もある。「まかい」とも。 ※「ま」は接頭語。(学研)
―その646―
●歌は、「岩つなのまたをちかえりあをによし奈良の都をまたも見むかも」である。
●歌をみていこう。
◆石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨
(作者未詳 巻六 一〇四六)
≪書き下し≫岩つなのまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
(訳)這(は)い廻(めぐ)る岩つながもとへ戻るようにまた若返って、栄えに栄えた都、奈良の都を、再びこの目に見ることができるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)岩つな:蔓性の植物。「またをちかへり」の枕詞。
(補注)「コトバンク 動植物名よみかた辞典 普及版」によると、「岩綱 (イワツナ)は、定家葛の古名,岩に這う蔦や葛の総称」とある。
(注)をちかへる【復ち返る】自動詞:①若返る。②元に戻る。繰り返す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌を含む一〇四四から一〇四六歌の歌群の、題詞は、「傷惜寧樂宮荒墟作歌三首 作者不審」<寧楽の京の荒墟(くわうきよ)を傷惜(いた)みて作る歌三首 作者審らかにあらず>である。
この三首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その341)」で紹介している。➡ こちら
―その647―
●歌は、「すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む」である。
●歌をみていこう。
◆皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反将見
(作者未詳 巻七 一一三三)
≪書き下し≫すめろきの神の宮人(みやひと)ところづらいやとこしくに我(わ)れかへり見む
(訳)代々の大君に仕えてきた大宮人たち、その大宮人たちと同じように、われらもいついつまでもやってきて、この吉野を見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ところずら〔‐づら〕【野老葛】[枕]① 同音の繰り返しで「常(とこ)しく」にかかる。② 芋を掘るとき、つるをたどるところから、「尋(と)め行く」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
※「ところづら」は「トコロ」のことで、「づら」はツルの意味である。ヤマノイモ科。
野老(ところ)が群生しているのをみて、在原業平が「野老澤」と言ったのが、今の埼玉県所沢のルーツともいわれている。
この歌群(一一三〇から一一三四歌)の題詞は、「芳野作」<吉野(よしの)作>である。羇旅の歌である。
この歌群の歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その343)」で紹介している。
➡ こちら
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」