―その651―
●歌は、「紫草のにほえる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇」<皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまふ御歌 明日香(あすか)の宮に天の下知らしめす天皇、謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>である。
◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
(大海人皇子 巻一 二一)
≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも
(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)むらさきの【紫の】( 枕詞 ):①植物のムラサキで染めた色のにおう(=美シクカガヤク)ことから、「にほふ」にかかる。②ムラサキは染料として名高いことから、地名「名高(なたか)」にかかる。③ムラサキは濃く染まることから、「こ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
左注は、「紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉」<紀には、「天皇の七年丁卯(ひのとう)の夏の五月の五日に、蒲生野(かまふの)に縦猟(みかり)す。 時に大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)・内臣(うちのまへつきみ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)に従(おほみとも)なり>である。
(注)七年:天智七年(668年)
(注)大皇弟:皇太弟、すなわち大海人皇子
(注)内臣:ここは、藤原鎌足
この歌は、巻一 二〇歌(額田王)に答えたものである。
二〇歌もみてみよう。
題詞は、「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌>である。
◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
(額田王 巻一 二〇)
≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。
(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。
(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。
(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。
(注)野守:天智天皇を寓したもの。額田王が天智妻であることをにおわす。
「野守(のもり)は見ずや」に対応する形で、二一歌では「人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に」と掛け合いをしている。宴での座興であろう。
この両歌の歌碑では、蒲生野に近い、滋賀県東近江市糟塚町 万葉の森船岡山山頂付近の巨大な歌碑が他を圧倒している。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その258,259)」では、山頂付近の歌碑ならびに万葉の森の蒲生野狩猟のレリーフ等について記載しているので参考にしていただきたい。➡ こちら
―その652―
●歌は、「醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ我にな見えそ水葱の羹は」である。
●歌をみていこう。
◆醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃▼物
(長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二九)
※▼は、「者」の下が「灬」でなく「火」である。「▼+物」で「あつもの」
≪書き下し≫醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ我(われ)にな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)は
(訳)醤(ひしお)に酢を加え蒜(ひる)をつき混ぜたたれを作って、鯛(たい)がほしいと思っているこの私の目に、見えてくれるなよ。水葱(なぎ)の吸物なんかは。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)つく【搗く・舂く】他動詞:杵(きね)をもって、穀物などを押しつぶしたり、殻を除いたりする。(学研)
「長忌寸意吉麻呂歌八首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌八首>の中の一首で、題詞は、「詠酢醤蒜鯛水葱歌」<酢(す)、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛(たひ)、水葱(なぎ)を詠む歌>である。
この歌には、「蒜」と「水葱」の二つの植物名が出ている。万葉集では、いずれもこの一首でのみ詠われている。「蒜」は、今でいう「ノビル」、「水葱」は、「ミズアオイ」のことである。
この歌のように、宴会の席などで、事物の名を歌の意味とは無関係に詠み込んだ遊戯的な歌を「物名歌(ぶつめいか)」という。和歌の分類の一つとして、「もののな」の歌,隠題 (かくしだい) の歌ともいわれ、古今集の時代などで定着した。この長忌寸意吉麻呂 (ながのいみきおきまろ) の歌は、その萌芽と言われる。
宴会の席上で、その場にある題材をあげて、即興で作るのであるから、題材となったテーマのものが、宴席に出ていた可能性は随分と高い。そうすると、「鯛」があるということは、当時としても、かなり高級な食材が供されていたことがうかがえる。
下二句「吾尓勿所見 水葱乃▼物」と。日常的な「水葱」の吸物を否定し、「鯛」が欲しいと強調し、場の宴席の料理のレベルを巧みに詠み込んでいる即興性には驚かされる。
―その653―
●歌は、「紫は灰さすものぞつば市の八十のちまたに逢へる児や誰」である。
●歌をみていこう。
◆紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰
(作者未詳 巻十二 三一〇一)
≪書き下し≫紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばいちの)の八十(
やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ
(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
(注)上二句「紫者 灰指物曽」は懸詞の序で、「海石榴市」を起こす。 ※紫染には、媒染材として椿の灰をつかった。
(注)衢(ちまた):分かれ道や交差点のことで、道がいくつにも分かれている所は「八衢(やちまた)」と呼ばれていた。海石榴市は四方八方からの主要な街道が交差している場所なので、「八十(やそ)の衢(ちまた)」と表現された。(「万葉のうた 第3回 海石榴市(つばいち)」 奈良県HP)
部立「問答歌」とあり、この歌と次の歌がセットになっている。
◆足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可
(作者未詳 巻十二 三一〇二)
≪書き下し≫たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰と知りてか
(訳)母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
(注)む 助動詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔意志〕…(し)よう。…(する)つもりだ。(学研)
三一〇一歌は、歌垣で求婚を申し出ている。当時は名前を尋ねることは求婚を意味し、女性が名前を教えることは結婚を承諾するということである。三一〇二歌で、教えたいけど教えられない、と申し込みをやんわりことわっている。
「紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばいちの)の」と歌うことに驚きを隠せない。当時としては、歌垣での歌と考えると、洒落た言い回しとしてある程度定着していたのかもしれない。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「万葉のうた 第3回 海石榴市(つばいち)」 (奈良県HP)