万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その654,655,656)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森―万葉集 巻十 二一〇四、十一 二四八〇、巻二十 四三二六

―その654―

●歌は、「朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」である。

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稲美町 中央公園万葉の森万葉歌碑(作者未詳)

 

●歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆朝杲 朝露負 咲雖云 暮陰社 咲益家礼

                 (作者未詳 巻十 二一〇四)

 

≪書き下し≫朝顔(あさがほ)は朝露(あさつゆ)負(お)ひて咲くといへど夕影(ゆふかげ)にこそ咲きまさりけれ

 

(訳)朝顔は朝露を浴びて咲くというけれど、夕方のかすかな光の中でこそひときわ咲きにおうものであった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふかげ【夕影】名詞:①夕暮れどきの光。夕日の光。[反対語] 朝影(あさかげ)。

②夕暮れどきの光を受けた姿・形。(学研)

 

 現在のアサガオは、この当時渡来していないので、この「朝顔(あさがほ)」については、桔梗(ききょう)説・木槿(むくげ)説・昼顔説などがあるが、木槿も昼顔も夕方には花がしぼむので、「夕影(ゆふかげ)にこそ咲きまさりけれ」というのは桔梗であると考えるのが妥当であろうといわれている。

 

 題詞は、「花を詠む」であるが、二〇九四から二一〇三歌までは、「萩」を詠っているが、この歌碑の二一〇四歌は、「あさがほ」である。続く二一〇五から二一一四歌までは、また「萩」であり、二一一五歌は、「をみなへし」となっている。そして二一一六歌から二一二七歌までは、ふたたび「萩」となっている。以後は、題詞が変わり、「雁を詠む」となっている。

 二〇九四ならびに二〇九五歌は、左注が「右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」となっている。

 巻十の構成は、四季ごとの部立(春雑歌・春相聞・・・)の先頭の歌群の左注は、「右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」となっている。例外としては、「夏雑歌」の場合は、「右は、古歌集の中に出づ」であり、「夏相聞」は記載がない。

 題詞の場合も、この歌碑の歌の歌群「花を詠む」(秋雑歌)のように、題詞の先頭歌群に配している場合もある。「黄葉を詠む」(秋雑歌)、「雨を詠む」(秋雑歌)のケースである。 秋雑歌の題詞は、「七夕」の先頭歌は、「右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」となっている。

 いずれにしても、万葉集の巻十は、「柿本人麻呂歌集」を核に構成されていると見ることができる。

 そうすると、題詞「花を詠む」(二〇九四~二一二七歌は、二〇九四ならびに二〇九五歌は、柿本朝臣人麻呂歌集、二〇九五から二一〇四歌、二一〇五から二一一五歌二一一六から二一二七歌は三つの万葉集編纂にあたっての資料ないしは歌集であったと思われる。

 

「あさがほ」は万葉集では五首詠われている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その283)」で五首すべてを紹介している。 ➡ こちら

 

 

 

―その655―

●歌は、「道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は」である。

 

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稲美町 中央公園万葉の森万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その469)」で紹介している。 

  ➡ こちら

 

◆路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀嬬 

或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者

               (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四八〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我(わ)が恋妻(こひづま)は 或本の歌には「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」といふ

 

(訳)道端のいちしの花ではないが、いちじるしく・・・はっきりと、世間の人がみんな知ってしまった。私の恋妻のことは。<いちじるしく世間の人が知ってしまったよ、絶えずあの子のことを思っているので。>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序、同音で「いちしろく」を起こす。

(注)いちしろし【著し】「いちしるし」に同じ。 ※上代語。

>いちしるし【著し】:明白だ。はっきりしている。 ※参考 古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 「いちし」については、万葉植物群の中でも難解植物とされていたが、ヒガンバナのことを山口県では、「イチシバナ」、福岡県では「イチジバナ」という方言があることが決め手となって、ヒガンバナが定説化された。

 

 

 

―その656―

●歌は、「父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来たるまで」である。

 

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稲美町 中央公園万葉の森万葉歌碑(壬生部足国)

●歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆父母我 等能々ゝ志利弊乃 母ゝ余具佐 母ゝ与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖

               (壬生部足国 巻二十 四三二六)

 

≪書き下し≫父母が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで

 

(訳)父さん母さんが住む母屋(おもや)の裏手のももよ草、そのよももよというではないが、どうか百歳(ももよ)までお達者で。私が帰って来るまで。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ももよ草:未詳 上三句は序。「百代」を起こす。

 

 「ももよ草」については、万葉集ではこの一首のみが収録されている。キク、ツユクサ、ムカシヨモギなどの説がある。

 

左注は、「右一首同郡生玉部足國」<右の一首は、同(おな)じき郡(こほり)の壬生部足国(みぶべたりくに)

 

 

 四三二一から四三二七歌の歌群の題詞は、「天平勝寶七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌」<天平勝宝(てんびやうしようほう)七歳乙未(きのとひつじ)の二月に、相替(あひかはり)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌>である。

(注)防人は、一旦陸路で難波に集結し、あと海路で筑紫に派遣された。三年交替。

この歌群の左注は、「二月の六日、防人部領使(さきもりのことりづかひ)遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首 但有拙劣歌十一首不取載之」<二月六日に、防人(さきもりの)部領使(ことりつかひ)遠江 (とほつあふみ)の国のの史生(ししやう)坂本朝臣人上(さかもとのあそみひとかみ)。進(たてまつ)る歌の数(かず)十八首。ただし拙劣(せつれつ)の歌十一首有るは取り載(の)せず。>である。

 

 防人の任期は三年、毎年三分の一が交替となっていた。主として東国の各国から、防人部領使(さきもりのことりづかひ)が難波まで連れて来て、中央の役人に引き継ぐのである。

 大伴家持は、その中央の役人、すなわち、兵部少輔の任にあたっていたので、防人達の歌が家持にわたり、万葉集に収録されることとなった。しかし、上述の左注にあるように、「拙劣(せつれつ)の歌」は取り上げられなかったのである。全体で見ると、「進(たてまつ)る歌の数(かず)百六十六首。ただし拙劣(せつれつ)の歌八十二首有るは取り載(の)せず」と相成ったのである。万葉集巻二十には八十四首が収録されたのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」