―その666―
●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。
●歌をみていこう。
◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
(額田王 巻一 二〇)
≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。
(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。
(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。
(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。
これまで、歌に関しては、機会あるごとに紹介してきたので、今回は「額田王」についてふれてみたい。
額田王については、「コトバンク 平凡社百科事典マイペディア」によると、「万葉初期の歌人。生没年不詳。はじめ大海人(おおあま)皇子(天武天皇)に愛されて十市(とおち)皇女を産み,のち天智天皇に召された。十市皇女は天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)の妃となったが,大友皇子は大海人皇子に敗れ自死している。額田王は,近江大津宮への遷都から壬申の乱前後の,波乱と緊張に満ちた時代を生きた。《万葉集》に残る長歌3,短歌10首(重複1首)は,ほとんど斉明・天智両朝の時期のものだが,格調の高い佳品が多く,代表的な万葉歌人の一人。」と書かれている。これを踏まえて少し書き足して行く。
とにかく、「謎の女王が額田である」(古代史で楽しむ万葉集 中西 進 著 角川ソフィア文庫)。
長歌三首、短歌十首は次の通りである。(歌のみ記す)題詞や左注に「謎」が潜んでいる。
◆巻一 七
秋の野のみ草(くさ)刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ
- 題詞は、「額田王が歌 いまだ詳らかにあらず」とある。
◆巻一 八
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな
八歌は、額田王が代作したもので、このような言い伝えがなされていると思われる。ここでいう天皇は斉明天皇のことである。
◆巻一 九
莫囂円隣之大相七兄爪謁気我(わ)が背子(せこ)がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと) ※「莫囂円隣之大相七兄爪謁気」:定訓がない
◆巻一 十六
冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かずありし 鳥も来(き)鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らず 草(くさ)深(ふか)み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみぢ)をば 取りてぞ偲(しの)ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨(うら)めし 秋山我れは
このような、春秋を競うということは、当時としては、漢風の風雅なことであり、額田王が、和歌を以て答えていること自体、大陸的素養と宮廷歌人的な側面をもっていたのではないかと思われる。
◆巻一 十七
味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山(やま) あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
◆巻一 十八
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
◆巻一 二十
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
◆巻一 一一二
いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が念(も)へるごと
◆巻一 一一三
み吉野の玉松が枝(え)ははしきかも君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく
◆巻二 一五一
かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを
◆巻二 一五五
やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)の 畏(かしこ)きや 御陵(みはか)仕ふる 山科(やましな)の 鏡(かがみ)の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人(おほみやひと)は 行き別れなむ
◆巻四 四八八
君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
◆巻八 一六〇六
君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
※四八八と重複
※ 四八八(一六〇六)と同時に、四八九歌(一六〇七歌)として「鏡王女が作る歌」が収録されている。この内容は、額田王の歌を受けた形である。
巻一の七歌が額田王の処女作といわれる。12~15歳くらいと想定すると、八歌(熟田津の歌)は、31歳の作となる。十七、十八歌は、38歳、二十歌は39歳の時の歌となる。
二十歌は、天智天皇と大海人皇子とを巡っての宮廷ロマンスをかき立たせてくれる。
39歳という年齢を考えれば、伊藤 博氏がその著「万葉集一」(角川ソフィア文庫)で、二十、二十一歌の脚注に書かれているように、「・・・掛け合い。宴での座興。事実ではない。」と思われてくる。
額田王については、①天皇の歌と言う別伝が見られる、②天皇の詔によって歌を作る、③天智天皇崩御に際し、皇后や他の婦人とともに挽歌を作る、④弓削の皇子との贈答歌(一一二歌)⑤「王」という呼び方は、皇室の一員、あるいは地方豪族の出身者と考えられる、⑥漢風素養を身に付ける素地があった、等々から、中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集(角川ソフィア文庫)」の中で、「ひとつの想定を下せば、(額田)王は近江に生まれ額田部(ぬかたべ)の郷で育てられた娘で、鏡王女とは姉妹であろう。」と、そして「額田王は、天智後宮において、『詞(ことば)』をもって仕える女性ではなかったかと思われる。」と述べられている。
『詞(ことば)』をもって仕える女性、ということになると、船の舳先で、右手を
突き出し、力強く、「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな」と叫ぶ姿がしっくりくる感じがする。
―その667―
●歌は、「梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く」である。
●歌をみていこう。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その354)」で紹介している。
➡ こちら354
◆成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲
(作者未詳 巻十六 三八三四)
≪書き下し≫梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く
(訳)梨、棗、黍(きび)、それに粟(あわ)と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のようにのちにでも逢うことができようと、葵(逢ふ日)の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)はふくずの「延(は)ふ葛(くず)の」枕詞:延びていく葛が今は別れていても先で逢うことがあるように、の意で「後も逢はむ」の枕詞になっている。
この歌には、植物の名前にかけた言葉遊びが隠されている。「黍(きみ)」は「君(きみ)」に、「粟(あは)」は「逢(あ)ふ」に、そして「葵(あふひ)」には「逢(あ)ふ日(ひ)」の意味が込められている。このような言葉遊びは、後の時代に「掛詞(かけことば)」という和歌の技法として発展していくのである。
―その668―
●歌は、「駿河の海磯辺に生ふる浜つづら汝を頼み母に違ひぬ」である。
●歌をみていこう。
◆駿河能宇美 於思敝尓於布流 波麻都豆良 伊麻思乎多能美 波播尓多我比奴 <一云 於夜尓多我比奴>
(作者未詳 巻十四 三三五九)
≪書き下し≫駿河(するが)の海(うみ)磯辺(おしへ)に生(お)ふる浜つづら汝(いまし)を頼み母に違(たが)ひぬ <一には「親に違ひぬ」といふ>
(訳)駿河の海の磯辺に根生えてどこまでも延び続ける浜つづら、その浜つづらのように、ずっとあなたを頼みにしつづけて、母さんに背いてしまいました。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)おしへ:いそへの訛り
(注)浜つづら:浜辺の蔓草
(注)上三句は序。「伊麻思乎多能美」を起こす。
(注)いまし【汝】代名詞:あなた。▽対称の人称代名詞。親しんでいう語。 ※上代語。(学研)
「東歌」というのは、東国の農庶民の間で詠われていた歌であり、作る歌というより生活体験にもとづき「生まれ出た歌」といわれている
二三〇首のうちほとんどが、恋の歌である。そして、土地と密着しているので、地名を詠み込んだ歌が多いのである。
表記も「一字一音」である。このことは、発せられた「音」が主導権をもっていると考えられる。
よくこれだけの歌が、収録されたものだと改めて感動させられるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」