万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑をたずねて(その685)―相生市相生金ヶ崎 HOTEL万葉岬 前―万葉集 巻三 三五七

●歌は、「縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣りしすらしも」である。

 

●歌碑は、相生市相生金ヶ崎 HOTEL万葉岬 前にある。 

(所在地の表記は相生市HP「万葉の岬」に従っている)

 

●歌をみていこう。

 

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相生市相生金ヶ崎「縄の浦山部赤人万葉歌碑」

◆縄浦従 背向尓所見 奥嶋 榜廻舟者 釣為良下

                                      (山部赤人 巻三 三五七)

 

≪書き下し≫縄(なは)の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕(こ)ぎ廻(み)る舟は釣りしすらしも

 

(訳)縄の浦からうしろに見える沖合の島、その島のあたりを漕ぎめぐっている舟は、まだ釣りをしているまっ最中らしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)らし(読み)助動 活用語の終止形、ラ変型活用語の連体形に付く。:① 客観的な根拠・理由に基づいて、ある事態を推量する意を表す。…らしい。…に違いない。②根拠や理由は示されていないが、確信をもってある事態の原因・理由を推量する意を表す。…に違いない。 [補説]語源については「あ(有)るらし」「あ(有)らし」の音変化説などがある。奈良時代には盛んに用いられ、平安時代には1の用法が和歌にみられるが、それ以後はしだいに衰えて、鎌倉時代には用いられなくなった。連体形・已然形は係り結びの用法のみで、また奈良時代には「こそ」の結びとして「らしき」が用いられた(コトバンク デジタル大辞泉

(注)「縄の浦」は相生湾。「奥つ島」は「沖つ島」で「鬘島」か。(相生市HP「万葉の岬」)

 

題詞は、「山辺宿祢赤人歌六首」<山辺宿禰赤人が歌六首>である。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その614)」で他の五首とともに紹介している。 ➡ こちら614

 

 

 磐座神社の次は、万葉の岬である。ほぼ南下する感じで約30分のドライブである。相生市ペーロンの町で知られるが、途中、ボート公園や相生ペーロン海館があり雰囲気を漂わせている。相生湾を右手に見ながら進む。

 

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「万葉の岬」の碑と歌碑案内板

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縄の浦山部赤人万葉歌碑解説案内碑


 間もなく万葉の岬である。湾岸から少し離れるにつれ登り坂に差し掛かる、つづら折りの坂道である。そこそこ登って行くと、右手の少し開けた場所に「万葉の岬」の石碑が建っている。そこに車をとめ、万葉歌碑案内板を写真に収める。案内板には、右手方向に、「縄の浦山部赤人万葉歌碑」、左手方向に、「鳴島万葉歌碑」と「山部赤人辛n荷島万葉歌碑」と書かれている。まず目指すは「縄の浦山部赤人万葉歌碑」である。

 万葉の時代に、山部赤人がこの相生湾に来ていたのだ。

 畿内あちこちに赤人の足跡が見られるが、万葉びとの行動力には驚かされる。歩きと野宿が主であるのに。大宰府だ、越中だ、因幡だと今でも移動を考えると大変なのに、その土地土地での歌を淡々と詠んでいる。

 

 案内板近くに下り道がある。しばらくだらだらと降りて行くと、左手に歌碑が見えて来た。

そこから海岸にも降りて行けそうであるが、歌碑が目的であるのでそこから「万葉の岬」の碑のところまで引き返し、次なる「鳴島万葉歌碑」と「山部赤人辛荷島万葉歌碑」を探すことに。

 からっと晴れていないのが残念であった。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の岬」 (相生市HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」