●歌は、「室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも」である。
(所在地の表記は相生市HP「万葉の岬」に従っている)
●歌をみていこう。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その616)」で紹介している。
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◆室之浦之 瑞門之埼有 鳴嶋之 磯越浪尓 所沾可聞
(作者未詳 巻十二 三一六四)
≪書き下し≫室(むろ)の浦(うら)の瀬戸(せと)の崎(さき)なる鳴島(なきしま)の磯(いそ)越す波に濡れにけるかも
(訳)室の浦の瀬戸の崎にある鳴島、その島の泣く涙だというのか、磯を越す波にすっかり濡れてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)鳴島:「泣く島」を懸ける。
巻十二は、万葉集目録によると「古今相聞往来歌類の下」(巻十一は上)となっており、
正述心緒歌一百十首
寄物陳思歌一百五十首
問答歌三十六首
羇旅発思歌五十三首
悲別歌三十一首
と、構成が記されている。
正述心緒歌、寄物陳思歌、羇旅発思歌の先頭歌群には「右〇〇首柿本人麻呂歌集出」と左注があり、巻十一同様、柿本人麻呂歌集を核に構成されていることがわかる。
「羇旅発思歌(きりよはつし)五十三首」の先頭歌三一二七から三一三〇歌の左注は、「右四首柿本朝臣人麻呂歌集出」となっている。従って、歌碑の歌は、人麻呂歌集以外の資料から編纂されたのである。
歌碑の歌を含む三一六二から三一六四歌の三首は、部立て「羇旅発思」であり、「妻を思う歌」が収録されている。
他の二首もみてみよう。
◆水咫衝石 心盡而 念鴨 此間毛本名 夢西所見
(作者未詳 巻十二 三一六二)
≪書き下し≫みをつくし心尽(つく)して思へかもここにももとな夢(いめ)にし見ゆる
(訳)みをつくしの名のように、心を尽くして、家の妻が私のことばかりを思っているせいか、旅先のここにもやたらに妻の姿が夢にでてくる。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)みをつくし【澪標】名詞:往来する舟のために水路の目印として立ててある杭(くい)。※ 参考「水脈(みを)つ串(くし)」の意。「つ」は「の」の意の古い格助詞。難波の淀(よど)川河口のものが有名。昔、淀川の河口は非常に広がっていて浅く、船の航行に難渋したことから澪標が設けられた。歌では、「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢(あ)はむとぞ思ふ」(『後撰和歌集』)〈⇒わびぬればいまはたおなじ…。〉のように、「身を尽くし」にかけ、また、「難波」と呼応して詠まれることが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)
◆吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母
(作者未詳 巻十二 三一六三)
≪書き下し≫吾妹子(わぎもこ)に触(ふ)るとはなしに荒礒 (ありそ)みに我(わ)が衣手(ころもで)は濡れにけるかも
(訳)いとしいあの子に触れるということはないまま、荒々しい磯から磯へのこの旅で、私の着物の袖はすっかり濡れてしまった。(同上)
「縄の浦山部赤人万葉歌碑」の次に訪れたのは、「鳴島万葉歌碑」である。HOTEL万葉の岬前を通り越して、しばらく行くと、「万葉の岬 つばき園ご案内」という看板が目に飛び込んでくる。
看板近くに車を停め、案内板を見る。園内の地図があり、万葉歌碑2基の位置が記されていた。地図を頭に、ゆっくりとつばき園の遊歩道を上って行く。
「鳴島万葉歌碑」が姿を現す。
つばき園というだけあって、いろいろな種類の椿が植えられている。案内板には40品種230余の椿が植えられているとあった。椿にこのようにたくさんの種類があることに驚く。シーズンに訪れて一度みてみたいものである。
案内板には、「ここ金ヶ崎からは、瀬戸内海が、東西180度に展望でき、淡路島から家島諸島、牛窓にいたる万葉故地を背景に、眼前に山部赤人の船旅展望の歌の舞台、辛荷の島、室の浦、鳴島等が千数百年前の風光をとどめて万葉のこころを伝えている」と記されている。
「万葉の岬」とは歴史の重みを感じさせる命名である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「万葉の岬」 (相生市HP)