―その693―
●歌は、「いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」である。
●歌をみていこう。
◆古 人之殖兼 杉枝 霞霏▼ 春者来良之
(柿本人麻呂歌集 巻十 一八一四)
※ ▼は、「雨かんむり+微」である。「霏▼」で「たなびく」と読む。
≪書き下し≫いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし
(訳)遠く古い世の人が植えて育てたという、この杉木立の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春はやってきたらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
万葉集巻十の部立は、「春雑歌」「春相聞」「夏雑歌」「夏相聞」「秋雑歌」「秋相聞」「冬雑歌」「冬相聞」となっている。先頭の歌群は大半が、柿本人麻呂歌集の歌である。人麻呂歌集の歌が万葉集にあって特別な位置にあるのは明らかである。
この歌碑の歌は、部立「春雑歌」の先頭歌群(一八一二~一八一八)「右柿本朝臣人麻呂歌集出」のひとつである。
この歌群の歌すべてを、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その73)」で紹介している。
➡ こちら73
―その694―
●歌は、「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも」である。
●歌をみていこう。
◆三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
(柿本人麻呂 巻四 四九六)
≪書き下し≫み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも
(訳)み熊野(くまの)の浦べの浜木綿(はまゆう)の葉が幾重にも重なっているように、心にはあなたのことを幾重にも思っているけれど、じかには逢うことができません。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)み熊野:紀伊半島南部一帯
(注)はまゆふ【浜木綿】名詞:浜辺に生える草の名。はまおもとの別名。歌では、葉が幾重にも重なることから「百重(ももへ)」「幾重(いくかさ)ね」などを導く序詞(じよことば)を構成し、また、幾重もの葉が茎を包み隠していることから、幾重にも隔てるもののたとえともされる。よく、熊野(くまの)の景物として詠み込まれる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)上三句は「心は思へど」の譬喩
「浜木綿」を詠んだ歌は、万葉集ではこの一首のみである。
題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌四首」<柿本朝臣人麻呂が歌四首>である。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その674)」で、四首すべてを紹介している。
➡ こちら674
―その695―
●歌は、「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも」である。
●歌をみていこう。
◆伊蘇可氣乃 美由流伊氣美豆 氐流麻泥尓 左家流安之婢乃 知良麻久乎思母
(大蔵大輔甘南備伊香真人 巻二〇 四五一三)
(注)大蔵大輔甘南備伊香真人(おほくらのだいふかむなびのいかのまひと)
≪書き下し≫磯影(いそかげ)の見ゆる池水(いけみづ)照るまでに咲ける馬酔木(あしび)の散らまく惜しも
(訳)磯の影がくっきり映っている池の水、その水も照り輝くばかりに咲きほこる馬酔木の花が、散ってしまうのは惜しまれてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
四五一一から四五一三歌の歌群の題詞は、「属目山斎作歌三首」<山斎(しま)を属目(しよくもく)して作る歌三首>である。
(注)しょくもく【嘱目・属目】( 名 ):① 人の将来に期待して、目を離さず見守ること。② 目に入れること。目を向けること。③ 俳諧で、即興的に目に触れたものを吟ずること。嘱目吟。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版) ここでは③の意
(注)しま【島】名詞:①周りを水で囲まれた陸地。②(水上にいて眺めた)水辺の土地。③庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。 ※「山斎」とも書く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その475)では、この歌群三首をすべて紹介している。
➡ こちら475
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」