―その699―
●歌は、「真木の葉のしなふ背の山しのはずて我が越え行けば木の葉知りけむ」である。
●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(3)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「小田事勢能山歌一首」<小田事(をだのつかふ)が背の山の歌一首>である。
(小田事 巻二 二九一)
≪書き下し≫真木(まき)の葉(は)のしなふ背(せ)の山しのはずて我(わ)が越え行けば木(こ)の葉知りけむ
(訳)杉や檜(ひのき)の枝ぶりよく茂りたわむ背の山であるのに、ゆっくり賞(め)でるゆとりもなく私は越えて行く、しかし、木の葉はこの気持ちがわかってくれたであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)まき【真木・槙】名詞:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう。 ※「ま」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)しなふ【撓ふ】自動詞:しなやかにたわむ。美しい曲線を描く。(学研)
(注)しのぶ【偲ぶ】他動詞:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。しのふ(学研) ここでは①の意
「しなふ」と「しのふ」は語呂合わせになっている。
「背」の山を、故郷にいる「妹」を想いながら越えて来たことへの気遣いの歌である。
このように、樹木が人の心を知る能力があると考えられていたので、「木の葉」に問いかけているのである。同じように「木の葉」に語りかけている歌がある。
こちらもみてみよう。
◆天雲 棚引山 隠在 吾下心 木葉知
(柿本人麻呂歌集 巻七 一三〇四)
≪書き下し≫天雲(あまくも)のたなびく山に隠(こも)りたる我(あ)が下心(したごころ)木(こ)の葉知るらむ
(訳)天雲のたなびく山に物すべてが籠(こも)っている、そんな私の心の奥底、この思いを木の葉だけは知ってくれているでしょう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
「真木(まき)」を詠んだ歌は、万葉集では十九首収録されている。
巻六 九一三歌「・・・み吉野の真木(まき)立つ山ゆ見下(みおろ)せば・・・」のように、特定の山の木を示していたり、巻六 九二八歌「・・・長柄の宮に真木柱(まきはしら)太高敷きて・・・」のように、太いのかかる枕詞として、また文字通り「真木柱」として、宮殿や邸宅に用いられた杉や檜(ひのき)などの材木で作った、太くてりっぱな柱として歌われているのである。
―その700―
●歌は、「すめろきの神の命の・・・み湯の上の木群を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり・・・」である。
●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(4)にある。
●歌をみていこう。
◆皇神祖之 神乃御言乃 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極是疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 敲思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸處
(山部赤人 巻三 三二二)
≪書き下し≫すめろきの 神(かみ)の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯(ゆ)はしも さわにあれども 島山(しまやま)の 宣(よろ)しき国と こごしかも 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌(うた)思ひ 辞(こと)思ほしし み湯(ゆ)の上(うへ)の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神(かむ)さびゆかむ 幸(いでま)しところ
(訳)代々の天皇がお治めになっている国のどこにでも、温泉(ゆ)はたくさんあるけれども中でも島も山も足り整った国と聞こえる、いかめしくも険しい伊予の高嶺、その嶺に続く射狭庭(いざにわ)に立たれて、歌の想いを練り詞(ことば)を案じられた貴い出で湯の上を覆う林を見ると、臣の木も次々と生い茂っている。鳴く鳥の声もずっと盛んである。遠い末の世まで、これからもますます神々しくなってゆくことであろう、この行幸(いでまし)の跡所(あとどころ)は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)しきます【敷きます】分類連語:お治めになる。統治なさる。 ※なりたち動詞「しく」の連用形+尊敬の補助動詞「ます」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)ことごと【尽・悉】副詞:①すべて。全部。残らず。②まったく。完全に。(学研) ここでは①の意
(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)
(注)こごし 形容詞:凝り固まってごつごつしている。(岩が)ごつごつと重なって険しい。 ※上代語。(学研)
(注)射狭庭の岡:温泉の裏にある岡の名
題詞は、「山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首幷短歌」<山部宿禰赤人、伊予(いよ)の温泉(ゆ)に至りて作る歌一首幷せて短歌>である。
「臣(おみ)の木」は、現在の何の木に相当するかは厳密には不明であるが、鎌倉時代の万葉集研究家の仙覚がこれを「モミの木」としており異論をはさむ者は少ないという。
「短歌」の方もみてみよう。
◆百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久
(山部赤人 巻三 三二三)
≪書き下し≫ももしきの大宮人(おほみやひと)の熟田津(にぎたつ)に船乗(ふなの)りしけむ年の知らなく
(訳)ももしきの大宮人が熟田津で船出をした年がいつのことかわからなくなってしまった。(同上)
この短歌は、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻一 八 額田王)」が念頭にある。
―その701―
●歌は、「離れ磯に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも」である。
●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(5)にある。
●歌をみていこう。
◆波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母
(遣新羅使人等 巻十五 三六〇〇)
≪書き下し≫離(はな)れ礒(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
(訳)離れ島の磯に立っているむろの木、あの木はきっと、途方もなく長い年月を、あの姿のままで過ごしてきたものなのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろの木:鞆の浦(広島県福山市鞆町) ※太宰帥大伴旅人が大納言となって帰京する時(この時は妻を亡くした後である)に「鞆の浦を過ぐる日に作る歌三首」(四四六から四四八歌の「鞆の浦のむろの木」)を踏まえている。
(注)うたがたも 副詞:①きっと。必ず。真実に。②〔下に打消や反語表現を伴って〕決して。少しも。よもや。(学研) ここでは①
この歌は「遣新羅使人等」の歌であり、次の歌群の一首である。
三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右八首乗船入海路上作歌」<右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上(うへ)にして作る歌>とある。難波津から広島県鞆の浦までの航海上に詠った歌である。
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その623)」では、この八首すべてを紹介している。
➡ こちら623
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」