万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その709,710,711)―和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園―万葉集 巻九 一六七七、巻九 一七九八、巻七 一二五〇

―その709―

●歌は、「大和には聞こえも行く大我野の竹葉刈り敷き廬りせりとは」である。

 

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紀伊風土記の丘万葉植物園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(13)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者

               (作者未詳 巻九 一六七七)

 

≪書き下し≫大和(やまと)には聞こえも行くか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈(か)り敷き廬(いほ)りせりとは

 

(訳)いとしい人の待つ大和には聞こえていったかな。ここ大我野の竹の葉を刈り敷いて、私が廬に籠っているということは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大我野:和歌山県橋本市西部の地という。

 

題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

一六六七から一六七九歌の十三首であるが、一六六七から一六七四歌までは海岸の事象をを詠っており、一六七五から一六七九歌は山道の歌となっている。往路は海路で、帰路は陸路であったのかもしれない。

 行幸のお供も、この作者のように、「竹の葉を刈り敷いて、廬に籠っている」いわゆる野宿である。一行の大変さはいかがなものであったのだろう。

 

 

―その710―

●歌は、「いにしへに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見れば寂しも」である。

 

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紀伊風土記の丘万葉植物園万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下

              (柿本人麻呂歌集 巻九 一七九八)

 

≪書き下し≫いにしへに妹と我(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも

 

(訳)過ぎしその日、いとしい人と私と二人で見た黒牛潟、この黒牛潟を、今たった一人で見ると、寂しくて仕方がない。(同上)

(注)黒牛潟:和歌山県海南市黒江海岸。

 

和歌山県神社庁「中言神社」の由来に、「『萬葉集』に詠まれている黒牛潟は当神社の境内周辺の地で、『紀伊風土記』にこの地古海の入江にてその干潟の中に牛に似たる黒き石あり、満潮には隠れ、干潮には現る 因りて黒牛潟と呼ぶ とあり」と書かれている。

 

題詞は、「紀伊國作歌四首」<紀伊の国(きのくに)にして作る歌四首>(一七九六から一七九九歌)であり、左注は、一七九五歌も入れて、「右五首柿本朝臣人麻呂歌集出」<右の五首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>とある。

 

万葉集巻一から六については、作者の知られる歌、従って時代をも特定できる歌が主体となっている。これに対し巻七から十二は記名歌群と無記名歌群に別れている。巻七から十二までは、人麻呂歌集を軸とした構成をもつようになっている。

 巻九は、そのなかでも、歌碑(プレート)の歌のように「柿本人麻呂歌集」を軸としながら、高橋連虫麻呂歌集、笠金村歌集、田辺福麻呂歌集と個人の名を冠した歌集が大きな構成となっているという特徴を持っている。

 ちなみに巻二十までを概括してみると、巻十三は「大和」の長歌(無記名)、巻十四は、「関東」の短歌(無記名)が、巻十五は、二つの長編歌物語、巻十六は「由縁有る雑歌」が収録されている。巻十三、巻十四が主体としてあり、付属的なものであったが、巻十五、十六と独立したものとも考えられる。

 巻十七から巻二十は大伴家持の日記風的な仕立てとなっている。

 

 

 

 

―その711―

●歌は、「妹がため菅の実摘みに行きし我れ山道に惑ひこの日暮らしつ」である。

 

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紀伊風土記の丘万葉植物園万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮

              (柿本人麻呂歌集 巻七 一二五〇)

 

≪書き下し≫妹(いも)がため菅(すが)の実(み)摘(つ)みに行きし我(わ)れ山道(やまぢ)に惑(まど)ひこの日暮しつ

 

(訳)故郷で待ついとしい人のために山菅の実を摘みに出かけた私は、山道に迷いこんで、とうとうこの一日を山で過ごしてしまった。(同上)

 

「菅(すが)」と詠んだ歌は、この一首だけで、他の十三首は、「山菅(やますげ)」である。「やますげ」が現在の植物の何に相当するか諸説がある。ジャノヒゲかヤブラン、もしくはスゲといわれており、水辺や野で詠われたものはスゲ、山辺では、ジャノヒゲかヤブランが』有力とされている。秋にはジャノヒゲは紫、ヤブランは黒い実をつける。

 

左注は、「右四首柿本朝臣人麻呂之歌集出」<右の四首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>である。

 

他の三首もみてみよう。

 

◆大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉

                (柿本人麻呂歌集 巻七 一二四七)

 

≪書き下し≫大汝(おほなむち)少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背(いもせ)の山を見らくしよしも

 

(訳)その大昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)の二柱の神がお作りになった、妹(いも)と背(せ)の山、ああ、この山を見るのは、何ともいえずすばらしい。(同上)

(注)妹背の山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の和歌山県伊都(いと)郡かつらぎ町の、紀ノ川の北岸の背山と、南岸の妹山をいう。『万葉集』以後に、妻恋いの歌が多く詠まれた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

◆吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与

               (柿本人麻呂歌集 巻七 一二四八)

 

≪書き下し≫吾妹子(わぎもこ)と見つつ偲(しの)はむ沖つ藻(も)の花咲きたらば我(わ)れに告げこそ

 

(訳)いとしいあの子と見なしながら偲ぼうと思う。沖の藻の花が咲いたら、さっそく、私に告げてほしい。(同上)

 

 

◆君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉

               (柿本人麻呂歌集 巻七 一二四九)

 

≪書き下し≫君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘むつむと我(わ)が染(そ)めし袖(そで)濡(む)れにけるかも

 

(訳)あの方に差し上げるために、浮沼の池の菱の実を摘もうとして、私が染めて作った着物の袖がすっかり濡れてしまいました。(同上)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「和歌山県神社庁HP」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」