●歌は、「やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島清き渚に風吹けば白波騒き潮干れば玉藻刈りつつ神代よりしかぞ貴き玉津島山」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人が作る歌一首幷せて短歌>である。
(注)神亀元年:724年
(注)幸(いでま)す時:聖武天皇の行幸(10月5日から23日まで)
◆安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背匕尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻
(山辺赤人 巻六 九一七)
≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大王(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀野(さひかの) そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮干(ふ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代(かみよ)より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま)
(訳)安らかに天下を支配されるわれらの大君、その大君のとこしえに輝く立派な宮として下々の者がお仕え申しあげている雑賀野(さいかの)に向き合って見える沖の島、その島の清らかなる渚に、風が吹けば白波が立ち騒ぎ、潮が引けば美しい藻を刈りつづけてきたのだ・・・、ああ、神代以来、そんなにも貴いところなのだ、沖の玉津島は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)とこみや【常宮】名詞:永遠に変わることなく栄える宮殿。貴人の墓所の意でも用いる。「常(とこ)つ御門(みかど)」とも。(学研)
(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(学研)
(注)沖つ島:ここでは「玉津島」をさす。
(注)玉津島 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の和歌山県にある山。和歌の浦にある玉津島神社(玉津島明神)の背後にある、風景の美しい所とされた。古くは島であった。(学研)
玉津島神社は古来より、和歌の神様を祀る神社として天皇や貴族、歌人たちに崇拝されてており、鹽竈神社は、安産・子授けの神として篤い信仰を集めている。
この地は、玉のように連なる6つの島山(玉津島六山)と、干満を繰り返す潟湖、砂嘴(さし)、海原、重なり霞む山並みを望む風光明媚な地としても崇められてきたという。
現在は妹背山(いもせやま)だけが島になっているが、万葉の時代の玉津島六山(妹背山、鏡山、奠供山、雲蓋山、妙見山、船頭山)は、潮が引くと陸続きになり、満潮時には海に浮かぶ島となったといわれている。
聖武天皇は、即位した年の神亀(じんき)元年(724年)10月に和歌の浦・玉津島に行幸(ぎょうこう)し、そして小高い山からの眺めに深く感動し、次のような詔(みことのり)を発したといわれている。
「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に『弱浜(わかはま)』の名を改めて『明光浦(あかのうら)』と為せ。宜しく守戸を置きて荒穢せしむることなかれ。春秋二時官人を差し遣して玉津島の神・明光浦霊(あかのうらのみたま)を奠祭せよ。(『続日本記』)」
聖武天皇が登ったこの山が玉津島神社の背後にある奠供(てんぐ)山といわれている。
この行幸に随行した歌人山部赤人も、長歌一首(九一七歌)、反歌二首(九一八、九一九歌)からなる玉津島讃歌を詠んでいる。(「玉津島神社・鹽竈神社HP」より抜粋作成)
大鳥居をくぐり、拝殿に進む、拝殿の前の境内には歌碑は見当たらない。工事中であったが、拝殿に向かって左手に少し傾斜地がありその奥に歌碑が二つ並んでいるのが見えた。
長歌一首(九一七歌)と反歌二首(九一八、九一九歌)の歌碑である。
反歌二首については、次回のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その734)」で解説する予定である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」