●歌は、「やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島清き渚に風吹けば白波騒き潮干れば玉藻刈りつつ神代よりしかぞ貴き玉津島山」(長歌)と
「沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも」
「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」である。
●歌碑は、和歌山市和歌浦南 片男波公園・健康館入口壁面にある。
「Wakaf 和歌山県文化振興財団HP」によると、「健康館とは、気軽に健康運動ができるアリーナをはじめ、トレーニング室、多目的室、シャワー、ロッカーを備えたコミュニティ体育館」とある。その二階に「万葉館」がある。
●歌をみていこう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その733)」「同(その734) 」で紹介している。
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歌のみ掲載する。
題詞は、「神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人が作る歌一首幷せて短歌>である。
(注)神亀元年:724年
(注)幸(いでま)す時:聖武天皇の行幸(10月5日から23日まで)
◆安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背匕尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代従 然曽尊吉 玉津嶋夜麻
(山辺赤人 巻六 九一七)
≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大王(おほきみ)の 常宮(とこみや)と 仕(つか)へ奉(まつ)れる 雑賀野(さひかの) そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚(なぎさ)に 風吹けば 白浪騒(さわ)き 潮干(ふ)れば 玉藻(たまも)刈りつつ 神代(かみよ)より しかぞ貴(たふと)き 玉津島山(たまつしまやま)
(訳)安らかに天下を支配されるわれらの大君、その大君のとこしえに輝く立派な宮として下々の者がお仕え申しあげている雑賀野(さいかの)に向き合って見える沖の島、その島の清らかなる渚に、風が吹けば白波が立ち騒ぎ、潮が引けば美しい藻を刈りつづけてきたのだ・・・、ああ、神代以来、そんなにも貴いところなのだ、沖の玉津島は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)とこみや【常宮】名詞:永遠に変わることなく栄える宮殿。貴人の墓所の意でも用いる。「常(とこ)つ御門(みかど)」とも。(学研)
(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(学研)
(注)沖つ島:ここでは「玉津島」をさす。
(注)玉津島 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の和歌山県にある山。和歌の浦にある玉津島神社(玉津島明神)の背後にある、風景の美しい所とされた。古くは島であった。(学研)
◆奥嶋 荒礒之玉藻 潮干滿 伊隠去者 所念武香聞
(山部赤人 巻六 九一八)
≪書き下し≫沖つ島荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)潮干(しほひ)満ちい隠(かく)りゆかば思ほえむかも
(訳)沖の島の荒磯(あらいそ)に生えている玉藻、この美しい藻は、潮が満ちて来て隠れていったら、どうなったかと思いやられるだろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)い 接頭語:動詞に付いて、意味を強める。「い隠る」「い通ふ」「い行く」。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
◆若浦尓 塩滿来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(山部赤人 巻六 九一九)
≪書き下し≫若(わか)の浦(うら)に潮満ち来(く)れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
(訳)若の浦に潮が満ちて来ると、干潟(ひがた)がなくなるので、葦の生えている岸辺をさして、鶴がしきりに鳴き渡って行く。(同上)
片男波公園の駐車場に車を止める。200台ほどの収容能力があるが、海水浴シーズンにも関わらす、10台ほどしか駐車していない。コロナの影響は当然ながらこれほどまでとは。
駐車場から健康館まで歩く。すれ違う人は皆無。真夏の日差しが容赦なく襲ってくる。健康館正面の左側の壁面に長歌と短歌二首の歌碑(レリーフ)があった。
入口から中に入ってみても、閑散としており、人の声もしない。
健康館から次の目的地、片男波公園・万葉の小路をめざす。往復で約2kmという、暑さがこたえるウォーキングとなるのである。万葉歌碑のためなら頑張れるそんな気持ちでの挑戦であった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「Wakaf 和歌山県文化振興財団HP」