万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その741,742)―片男波公園・万葉の小路ならびに名手酒造駐車場―万葉集 巻七 一二一九、巻九 一六七二

―その741―

●歌は、「若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕は大和し思ほゆ」である。

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片男波公園・万葉の小路万葉歌碑(藤原卿)

 

●歌碑は、和歌山市和歌浦南 片男波公園・万葉の小路(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念

               (藤原卿 巻七 一二一九)

 

≪書き下し≫若(わか)の浦(うら)に白波立ちて沖つ風寒き夕(ゆうへ)は大和(やまと)し思ほゆ

 

(訳)和歌の浦に白波が立って、沖からの風が肌寒いこの夕暮れ時には、家郷大和が偲ばれる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

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歌の解説碑

 一二一八から一一九五歌までの歌群の左注は、「右七首者藤原卿作 未審年月」<右の七首は、藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)が作 いまだ年月審(つばひ)らかにあらず>である。

(注)伊藤 博氏の巻七 題詞「羇旅作」の脚注に、「一一六一から一二四六に本文の乱れがあり、それを正した。そのため歌番号の順に並んでいない所がある。」と書かれている。 この歌群もそれに相当している。

 この左注にある「右七首者藤原卿作」の歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その732)」で紹介している。 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

―その742―

●歌は、「黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻」である。

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名手酒造駐車場万葉歌碑(作者未詳)


 

●歌碑は、海南市黒江 名手酒造駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉裾須蘇延 徃者誰妻

               (作者未詳 巻九 一六七二)

 

≪書き下し≫黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれない)の玉裳(たまも)裾引(すそび)き行くは誰が妻

 

(訳)黒牛潟の潮の引いた浦辺、この浦辺を、紅染(べにぞ)めのあでやかな裳裾を引きながら行く人、あれはいったい誰の妻なのか。(同上)

(注)黒牛潟:海南市黒江海岸

 

 片男波公園から名手酒造までは約20分のドライブである。

歌碑のある名手酒造は、「黒牛」というブランドの日本酒の醸造元である。名手酒造のある和歌山県海南市黒江の周囲は美しい入江で、黒く大きな岩が黒い牛のように見えたということから、万葉の時代にはこのあたりは、黒牛潟と呼ばれていたという。

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名手酒造駐車場万葉歌碑ならびに歌碑プレート


 

 駐車場には、歌碑と、歌碑の歌のプレートならびに万葉集の歌碑プレートが8枚掲げられている。

 

題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

一六六七から一六七九歌の十三首であるが、一六六七から一六七四歌までは海岸の事象をを詠っており、一六七五から一六七九歌は山道の歌となっている。往路は海路で、帰路は陸路であったのかもしれない。

 

 

◆為妹 我玉求 於伎邊有 白玉依来 於伎都白浪

                (作者未詳 巻九 一六六七)

 

≪書き下し≫妹(いも)がため我(わ)れ玉求む沖辺(おきへ)なる白玉(しらたま)寄せ来(こ)沖つ白波

 

(訳)家に待つ人のために私は玉を探しているのだ。沖深くひそんでいる白玉をうち寄せて来ておくれ。沖の白波よ。(同上)

 

左注は、「右一首上見既畢 但歌辞小換 年代相違 因以累戴」<右の一首は、上(かみ)に見ゆることすでに畢(をは)りぬ。ただし、歌辞少(すこ)しく換(かは)り、 年代相違(あひたが)ふ。よりて累(かさ)ね戴(の)す>である。

(注)この左注は、一六六五歌を意識したもの。往年の歌がこの時にも詠われたからであろう。「妹(いも)がため我(わ)れ玉拾(ひり)ふ沖辺(おきへ)なる玉寄せ持ち来(こ)沖つ白波(作者未詳 一六六五歌)」

 

 

◆白埼者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧

               (作者未詳 巻九 一六六八)

 

≪書き下し≫白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかじ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む

 

(訳)白崎よ、お前は、どうか今の姿のままで待ち続けていておくれ。この大船の舷(ふなばた)に櫂(かい)をいっぱい貫(ぬ)き並べて、また立ち帰って来てお前を見よう(同上)

(注)白崎:和歌山県日高郡由良町

 

 

◆三名部乃浦 塩莫満 鹿嶋在 釣為海人乎 見變来六

               (作者未詳 巻九 一六六九)

 

≪書き下し≫南部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島(かしま)にある釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む

 

(訳)南部(みなべ)の浦、この浦に潮よそんなに満ちないでおくれ。向かいの鹿島で釣りする海人(あま)を、見て帰って来たいから。(同上)

(注)南部:和歌山県日高郡みなべ町

(注)鹿島:南部の約1キロ沖にある島

 

 

◆朝開 滂出而我者 湯羅前 釣為海人乎 見反将来

               (作者未詳 巻九 一六七〇)

 

≪書き下し≫朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ出(で)て我(わ)れは由良(ゆら)の崎(さき)釣りする海人(あま)を見て帰り来む

 

(訳)朝早く港を漕ぎ出して、私は、由良の崎で釣りする海人を、見て帰って来たいものだ。(同上)

(注)あさびらき【朝開き】名詞:船が朝になって漕(こ)ぎ出すこと。朝の船出(学研)

 

 

◆湯羅乃前 塩乾尓祁良志 白神之 礒浦箕乎 敢而滂動

               (作者未詳 巻九 一六七一)

≪書き下し≫由良(ゆら)の崎(さき)潮干(しほひ)にけらし白神(しらかみ)の礒(いそ)の浦(うら)みをあへて漕(こ)ぐなり

 

(訳)由良の崎は、潮が引いたらしい。舟が、白神の岩礁のあたりを、難儀しながら漕いでいるようだ。(同上)

(注)白神の岩礁由良町白崎海岸は石灰質の岩であり、白っぽい岩肌をしているのでこのように表現したのではと思う(私見

 

 

◆風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無  <一云 於斯依来藻>

               (作者未詳 巻九 一六七三)

 

≪書き下し≫風莫(かぎなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに  <一には「ここに寄せ来も」と云ふ>

 

(訳)風莫(かぎなし)の浜の静かな白波、この波はただ空しくここに寄せてくるばかりだ。見て賞(め)でろ人もないままに。(同上)

(注)風莫(かぎなし)の浜:黒牛潟の称か。

 

左注は、「右一首山上臣憶良類聚歌林曰 長忌寸意吉麻呂應詔作此歌」<右の一首は、山上臣憶良(やまのうえおみおくら)が類聚歌林(るいじうかりん)には「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、詔(みことのり)に応(こた)へてこの歌を作る」といふ>である。

 

 

◆我背兒我 使将来歟跡 出立之 此松原乎 今日香過南

               (作者未詳 巻九 一六七四)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)が使(つかひ)来(こ)むかと出立(いでたち)のこの松原を今日(けふ)か過ぎなむ

 

(訳)いとしいあの方の使いがもう来るかもう来るかと門口に出て立つという名の出立の松原、待つその人を思わせるこの松原を、今日素通りしてしまうのか。(同上)

(注)上二句は序。「出立」を起こす。

(注)出立:和歌山県田辺市西部の海岸

 

◆藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳

               (作者未詳 巻九 一六七五)

 

≪書き下し≫藤白(ふぢしろ)の御坂(みさか)を越ゆと白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも

 

(訳)藤白の神の御坂を越えるというので、私の着物の袖は、雫(しずく)にすっかり濡れてしまった。(同上)

(注)藤白の神の御坂:海南市藤白にある坂。有間皇子の悲話を背景に置く歌。

 

 

◆勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫

(作者未詳 巻九 一六七六)              

 

≪書き下し≫背(せ)の山(やま)に黄葉(もみち)常敷(つねし)く神岳(かみをか)の山の黄葉(もみち)は今日(けふ)か散るらむ

 

(訳)背の山のもみじが絶えず散り敷いている。神岳の山のもみじは、今日あたりさかんに散っていることであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)背の山:和歌山県伊都群かつらぎ町の山

(注)神岳:明日香橘寺東南のミハ山か。

 

 

◆山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者

               (作者未詳 巻九 一六七七)

 

≪書き下し≫大和(やまと)には聞こえも行くか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈(か)り敷き廬(いほ)りせりとは

 

(訳)いとしい人の待つ大和には聞こえていったかな。ここ大我野の竹の葉を刈り敷いて、私が廬に籠っているということは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大我野:和歌山県橋本市西部の地という。

 

 

 

◆木國之 昔弓雄之 響矢用 鹿取靡 坂上尓曽安留

               (作者未詳 巻九 一六七八)

 

≪書き下し≫紀伊の国(きのくに)の昔弓雄(ゆみを)の鳴り矢もち鹿(しし)取り靡(な)べし坂の上(うへ)にぞある

 

(訳)その昔、紀伊の国のあの剛の者弓雄が、鳴り矢をうならせて鹿猪(しし)を退治し一帯を平定した、その坂の上であるぞ、ここは。(同上)

(注)弓雄:伝説上の英雄の名か。

(注)なりや【鳴り矢】名詞:「かぶらや」に同じ。「なるや」とも。(学研)

(注)鹿:悪神の化身。

 

 

◆城國尓 不止将徃来 妻社 妻依来西尼 妻常言長柄  <一云 嬬賜尓毛 嬬云長良>

               (作者未詳 巻九 一六七九)

 

≪書き下し≫紀の国にやまず通(かよ)はむ妻(つま)の杜(もり)妻寄(よ)しこせに妻といひながら  <一には「妻賜はにも妻といひながら」といふ。>

 

(訳)この紀伊の国にはいつもいつも通って来よう。妻の社の神よ、妻を連れて来て置いて下さい。妻という名をお持ちなのですから。<妻をお授け下さい。妻という名をお持ちなのですから>(同上)

(注)妻の社:橋本市妻の神社。

 

左注は、「右一首或云坂上忌寸人長作」<右の一首は、或いは、「坂上忌寸人長(さかのうえのいみきひとをさ)が作」といふ>である。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」