―その748―
●歌は、「紫の名高の浦の真砂地袖のみ触れて寝ずかなりなむなりけむ」である。
●歌碑は、海南市藤白 紫川説明プレートにある。
●歌をみていこう。
◆紫之 名高浦之 愛子地 袖耳觸而 不寐香将成
(作者未詳 巻七 一三九二)
≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)の真砂地(まなごつち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ
(訳)名高の浦の細かい砂地には、袖が濡れただけで、寝ころぶこともなくなってしまうのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)紫の(読み)ムラサキノ[枕]:① ムラサキの根で染めた色の美しいところから、「にほふ」にかかる。② 紫色が名高い色であったところから、地名「名高(なたか)」にかかる。③ 濃く染まる意から、「濃(こ)」と同音を含む地名「粉滷(こがた)」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
(注)まなご【真砂】名詞:「まさご」に同じ。 ※「まさご」の古い形。上代語。 ⇒まさご【真砂】名詞:細かい砂(すな)。▽砂の美称。 ※古くは「まなご」とも。「ま」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)真砂土は、愛する少女の譬えか。
有間皇子にしてもそして中大兄皇子自身も、苛酷な殺戮史のなかに身を置き、悲しみの極地の歌の作者となり、その歌に共感する人びとを生んだのである。
中西 進氏はその著「古代史で楽しむ万葉集(角川ソフィア文庫)」の中で「大化の改新以後はまことに古代史における一大転換の時であった。それなりに新時代の誕生は輝かしくはあったけれども、一面それは血と非情を代価として得た輝きであった。その非情の歴史の中から(中略)万葉歌が生まれて来る。」と書かれている。
歴史的悲劇の現場に向かう興奮状態にあったのだろう。藤白神社の境内社「有間皇子神社」から藤白坂をめざしていた時には気が付かなかったが、戻り道、溝程度を跨ぐ橋とは言えないところに「紫川」の説明案内板が設置してあるのを見つけた。
紫川は、上流の谷の石が紫色を帯びているからとも、村崎にあるからとも言われており、名高にも紫川があったことは、本居宣長の「玉勝間(たまかつま)」でも紹介されており、名高浦に注ぐ川ゆえに紫川と呼ばれた、といったことが説明板に書かれている。
さらに、「紫の」という枕詞について書かれており、一三九二歌が紹介されている。
そして、「紫の名高の浦の」で始まる歌は万葉集に三首あることも書かれている。
あとの二首は、次のブログで紹介する二七八〇歌と一三九六歌である。
一三九二歌:紫の名高の浦の真砂地袖のみ触れて寝ずかなりなむ
二七八〇歌:紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを
一三九六歌:紫の名高の浦のなのりその磯に靡かむ時待つ我れを
―その749―
●歌は、「紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを」である。
●歌をみていこう。
◆紫之 名高乃浦之 靡藻之 情者妹尓 因西鬼乎
(作者未詳 巻十一 二七八〇)
≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦の靡(なび)き藻の心は妹(いも)に寄りにしものを
(訳)紫の名高の浦の、波のまにまに揺れ靡く藻のように、心はすっかり靡いてあの子に寄りついてしまっているのに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)上三句は序。「寄りにし」を起こす。
藤白神社から海南駅までは5,6分のドライブである。海南駅西口のロータリーのところに歌碑がある。
駅前のコインパーク仕様の駐車場に車を停める。15分以内は無料である。
高架駅になっている。海洋をイメージした半円の図柄が大きくデザインされている。
歌碑は、大小二つの長方形を基本に斜線を走らせ、三角形で波を象徴したかのようなモダンな造りで、バックに見える海南駅と見事に調和している。
この歌碑も海南ロータリークラブが設置したと書かれている。海南医療センター筋向いの一三九二歌の歌碑も大きな石に、大胆な筆使いで白字で書かれていた。このように、時間軸を超えた万葉歌と現代がマッチしたユニークな歌碑があり、楽しませてくれるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進む 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」