●歌は、「紫の名高の浦のなのりその磯に靡かむ時待つ我れを」である。
●歌碑は、海南市名高 海南駅南高架下交差点南西角方向にある。
●歌をみていこう。
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その756)」で紹介している。
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◆紫之 名高浦乃 名告藻之 於礒将靡 時待吾乎
(作者未詳 巻七 一三九六)
≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを
(訳)名高の浦に生えるなのりその磯に靡く時、その時をひたすら待っている私なのだよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)むらさきの【紫の】( 枕詞 ):①植物のムラサキで染めた色のにおう(=美シクカガヤク)ことから、「にほふ」にかかる。②ムラサキは染料として名高いことから、地名「名高(なたか)」にかかる。 ③ムラサキは濃く染まることから、「こ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
(注)なのりそ 名詞:海藻のほんだわらの古名。正月の飾りや、食用・肥料とする。 ※和歌では「な告(の)りそ(=告げるな)」の意をかけて用い、また、「名(な)」を導く序詞(じよことば)の一部を構成する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
「名高」、「なのりそ」、「靡く」と「な」がリズミカルにひびく歌である。
「万葉集 四」(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫)の「初句索引」を参考に「紫の」ではじまる万葉集の歌をみてみよう。
なお、「訳」はすべて、伊藤 博 著 「万葉集 一から四」(角川ソフィア文庫)より引用させていただいた。
◆紫の糸をぞ我(わ)が搓(よ)るあしひきの山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて(作者未詳 巻七 一三四〇)
(訳)紫色の糸を、私は今一生懸命搓り合わせている。山橘の実、あの赤い実をこれに通そうと思って。
(注)「山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)く」は、男と結ばれる譬え
◆紫の帯(おび)の結びも解きもみずもとなや妹(いも)に恋ひわたりなむ(作者未詳 巻十二 二九七四)
(訳)紫染めの帯の結び目さえ解くこともなく、ただいたずらにあの子に焦がれつづけることになるのか。
◆紫の粉潟(こかた)の海に潜(かづ)く鳥玉潜き出(で)ば我(わ)が玉にせむ(作者未詳 巻十六 三八七〇)
(訳)紫の粉(こ)ではないが、その粉潟(こかた)の海にもぐってあさる鳥、あの鳥が真珠を拾い出したら、それは俺の玉にしてしまおう。
(注)「潜(かづ)く鳥」は親の譬え。
(注)「玉」は女の譬え。
(注)「玉潜き出(で)ば」は、親が娘を無事育て上げて、の譬え。
◆紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを(作者未詳 巻七 一三九六)
(訳)名高の浦に生えるなのりその磯に靡く時、その時をひたすら待っている私なのだよ。
◆紫(むらさき)の名高(なたか)の浦の靡(なび)き藻の心は妹(いも)に寄りにしものを(作者未詳 巻十一 二七八〇)
(訳)紫の名高の浦の、波のまにまに揺れ靡く藻のように、心はすっかり靡いてあの子に寄りついてしまっているのに。
(注)上三句は序。「寄りにし」を起こす。
◆紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)の真砂地(まなごつち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ(作者未詳 巻七 一三九二)
(訳)名高の浦の細かい砂地には、袖が濡れただけで、寝ころぶこともなくなってしまうのであろうか。
(注)まなご【真砂】名詞:「まさご」に同じ。 ※「まさご」の古い形。上代語。 ⇒まさご【真砂】名詞:細かい砂(すな)。▽砂の美称。 ※古くは「まなご」とも。「ま」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)真砂土は、愛する少女の譬えか。
◆紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも(大海人皇子 巻一 二十一)
(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。
◆紫草(むらさき)の根延(ねば)ふ横野(よこの)春野(はるの)には君を懸(か)けつつうぐひす鳴くも(作者未詳 巻十 一八二五)
(訳)紫草(むらさきぐさ)の根を張る横野のその春の野には、あなたを心にかけるようにして、鴬が鳴いている。
◆紫のまだらのかづら花やかに今日(けふ)見し人に後(のち)恋いむかも(作者未詳 巻十二 二九九三)
(訳)紫染めのだんだら縵(かずら)のように、はなやかに美しいと今日見たあの人に、あとになって恋い焦がれることだろうな。
◆紫の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩(や)せむ逢よしもなみ(作者未詳 巻十二 二九七六)
(訳)紫染めの私の下紐の色が外からは見えないように、顔色にも思いを出せないまま、この身は恋ゆえに痩せ細ってゆくのでしょうか。お逢いする手立てもないので。
(注)上二句は序。「色に出でず」を起こす
「紫の」と詠いだすだけで、なにかしら艶っぽいというか色っぽいというかそういった雰囲気を醸し出すように思える。恋の機微が感じられるのである。
前回、海南市を訪れ歌碑めぐりをしたときに宿題となった旧海南市役所の歌碑、ご対面なるか。
市役所で聞いてもわからず、WEBやブログで検索、キーワードは「ロータリークラブ」と絞り込み、前日の電話では空振りであったが、係りの方の予定を教えていただき、海南駅で時間調整をし、事務所に戻られる頃合いと電話を掛ける。
丁寧に教えていただく。どうも、海南駅の南高架下交差点の歌碑(巻十一 二七三〇)の近くのようである。道路反対側の川の側と言うことであった。わからなければもう一度電話してくださいと丁寧に言っていただく。言われた通り、二七三〇歌の歌碑近くまで行く。歌碑から対角線上に、ブログで見た写真の「青色申告・振替納税推進の街」の青色の看板が目に飛び込んできた。間違いない!
交差点をはさんで対角線上に歌碑が2基あるのである。リベンジ成功。ロータリークラブにお礼の電話を入れ一件落着。
簡単に巡り逢えそうで意外とてこずる歌碑がある。出会えた時の感動といっても、本人にしかわからないと思う。このようなことも読んでいただいた方には心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」