万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その768)―近鉄吉野駅前広場―万葉集 巻一 二七

●歌は。「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

 

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近鉄吉野駅前広場万葉歌碑(天武天皇

●歌碑は、近鉄吉野駅前広場にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

               (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。

(注)良き人:今の貴人をいう。

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近鉄吉野駅


 

 

 「よし」という言葉を重ねることに興じた歌で、八つも重ねられている。このような言葉を重ねる戯れは、大伴坂上郎女の次の歌にも見られる。

 

題詞は、「大伴郎女和歌四首」<大伴郎女が和(こた)ふる歌四首>のうちの一首である。

 

◆将来云毛 不來時有乎 不来云乎 将来常者不待 不來云物乎

               (大伴坂上郎女 巻四 五二七)

 

≪書き下し≫来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを

 

(訳)あなたは、来(こ)ようと言っても来(こ)ない時があるのに、まして、来(こ)まいと言うのにもしや来(こ)られるかと待ったりはすまい。来(こ)まいとおっしゃるのだもの。(同上)

 

これは、題詞「京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首 」<京職(きやうしき)藤原大夫が大伴郎女に贈る歌三首>に和(こた)えた歌である。

 

 天武天皇の歌に戻って、「よし」と書き記した文字をあげて見ると、順に「淑」「良」「吉」「好」「芳」「吉」「良」「四来」の八つである。最後の「よくみ」は「四来」ときたので「見」を「三」で締めている。歌い手も書き手も戯れているのである。

 

 万葉集の用字法の一つに「戯書」がある。「義訓の一種で、漢字の意義を遊戯的、技巧的に用いたもの。「出」字は、「山」字を重ねたものと解して「出でば」を「山上復有山者」と書き、掛け算の九九を利用して、「獅子(しし)」を「十六」と書くようなものをいう。」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 他には「神楽声(ささ)」がある。これは、「仲哀記に『奉り来し御酒ぞ 止さず飲せ 佐々』(歌謡39番)、『この御酒の 御酒の あやに甚楽し 佐々』(歌謡40番)とあり、神楽の囃子詞でササと言っており、「神楽声」をササと訓ませた。」という。(万葉神事語事典 國學院デジタル・ミュージアム) 

このような擬声語お利用した例としては、巻十三 三三二四歌の「喚犬追馬鏡」(まそかがみ)がある。犬を呼ぶときにはママ、馬を追う時にはソソと言ったことによると言われている。複雑なものでは、「火」を「なむ」と読ませる、巻十三 三二九八歌の「二ゝ火四吾妹」(しなむよわぎも)の例がある。「火」は中国の五行説からの方角を表し、その方角の「南」から「ナム」という。「二ゝ」を「し」と掛け算の九九を利用し「よ」を「四」と戯れている。

 

三二九八歌は「戯書」の見本みたいなものである。「八」「二」「四」「七」と漢数字を使っている。みてみよう。

 

◆縦恵八師 二ゝ火四吾妹 生友 各鑿社吾 戀度七目

               (作者未詳 巻十三 三二九八)

 

≪書き下し≫よしゑやし死なむよ我妹‘わぎも)生(い)けりともかくのみこそ我が恋ひわたりなめ

 

(訳)ええいもう、いっそ死んでしまいたいよ。お前さん。生きていたって、どうせこんなありさまで焦がれつづけるだけなのだろうから。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)よしゑやし【縦しゑやし】分類連語:①ままよ。ええ、どうともなれ。②たとえ。よしんば。 ※上代語。  ⇒なりたち副詞「よしゑ」+間投助詞「やし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 他の歌の「よしゑやし」の表記は、吉恵哉(巻十一 二三七八)、忍咲八師(巻十 二三〇一;他の漢数字の表記はなし)、吉哉(巻十 二〇三一)、不欲恵八師(巻十二、三一九一;他の漢数字の表記はなし)である。

 

 

またまた脱線してしまった。天武天皇の歌にもどろう。

 

左注は、「紀日 八年己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮」<紀には「八年己卯(つちのとう)の五月庚辰(かのえたつ)の朔の甲申(きのえさる)に、吉野の宮に幸(いでま)す」といふ>である。

(注)八年:天武八年(679年)五月五日

 

 左注のとおり、『日本書紀』には、天武八年五月五日に吉野宮へ行幸したこと、翌六日に、草壁(くさかべ)皇子・大津(おおつ)皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子四皇子と天智天皇の遺児である川島(かわしま)皇子・志貴(しき)皇子の二皇子ら六皇子に争いをせずお互いに助け合うと盟約させたこと、が記されている。

 なお、天武天皇の四皇子はそれぞれ母親は異なっている。草壁皇子は鵜野讃良皇后(後の持統天皇)、大津皇子は大田皇女、高市皇子は尼子娘、忍壁皇子は宍人臣大麻呂娘である。他には皇子として忍壁皇子の同母弟の磯城皇子、大江皇女の長皇子、弓削皇子そして大蕤娘(おおぬのいらつめ)の穂積皇子がいる。

 

吉野の盟約はある意味、後の大津皇子の悲劇の予兆があったのであろう。

 

 

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万葉歌碑と歌の解説案内板

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉神事語事典」 (國學院デジタル・ミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典