万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その774)―吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上―万葉集 巻十 一九一九

●歌は、「国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」である。

 

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吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆國栖等之 春菜将採 司馬乃野之 數君麻 思比日

               (作者未詳 巻十 一九一九)

 

≪書き下し≫国栖(くにす)らが春菜(はるな)摘(つ)むらむ司馬(しま)の野のしばしば君を思ふこのころ               

 

(訳)国栖たちが春の若菜を摘むという司馬(しま)の野、その野の名のように、しばしばあなたのことを思うこの頃です。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)国栖(くにす):吉野川上流の国栖(くず)付近に住んでいた人たち。

(注)上三句は序。「しばしば」を起こす。

(注)司馬(しま)の野:所在未詳

 

奈良県HP「はじめての万葉集 vol.33 司馬の野の春菜摘み」にこの歌について詳しく解説されているので引用させていただく。

 

 「『春』というと、日差しが暖かくなる三月や桜の花咲く四月が思い浮かぶのではないでしょうか。一方で「新春」等の言葉は一月に使います。でも、一月はまだまだ寒くて、あまり「春」らしい感覚がありません。

 古代日本に中国式の暦が導入されたとき、一年を四つに分ける考え方も入ってきました。一月~三月が春、四月~六月が夏、七月~九月が秋、十月~十二月が冬というもので、新しい一年が始まる一月に『新春』というのもうなずけます。もともと月の運行と中国大陸の季節感から作られた暦でしたので、日本列島での体感とは異なる部分もあったようです。さらに、現在は太陽の運行をもとにした暦を使っており、旧暦とは約一カ月のずれがあります。一月は現代の暦でいうと二月頃にあたりますから、古代の一月は体感としては梅の花咲く『早春』と考えられます。

 そんな古代の『春』には、女性たちが菜摘みを行いました。一年の最初に芽吹いた『春菜』はいわば植物の生命力の象徴であり、それを摘んで食べることで、生命力を体内に取り込むことができると考えていたようです。現代の日本でも、一月七日に春の七草を摘んで粥にして食べる風習が残っています。

 この歌では、とくに吉野の『国栖』が菜摘みをする場面が表現されています。彼らは『日本書紀』に独特の風俗を持つ人々として描かれていますが、司馬という地が現在のどこにあたるかはよくわかっていません。

 この歌の主意は、しばしばあなたを思う、という部分にこそあります。『しばしば』を導き出すたとえとして、『司馬』での春菜摘みが詠まれています。一心に菜摘みする女性のイメージと重なりながら、相手への思いが伝わってくるように思います。」

 

「葛」の名前の由来について、奈良県HP「同 vol.28」に、「葛粉を使った葛まんじゅうや葛切りなどは暑い夏にぴったりの、涼しげな食べ物です。

 ところで、『くず』という名前の由来を知っていますか?この名前は、吉野町の国栖(くず)という地域が、その昔、葛粉の産地であったことに由来するといわれています。現在の国栖は、割り箸や和紙などを生産する『ものづくりの里』として知られ、県の景観資産にも登録されています。」と書かれている。

 吉野葛は有名であるがこの葛の名前の由来には驚かされた。

 

吉野歴史資料館について、吉野町HPに「宮滝遺跡から出土した縄文・弥生の遺物や天武・持統天皇が度々訪れた吉野の宮に関する展示を行い、吉野の歩みと文化をも学ぶことができる町営施設。また、施設から見る「青根が峯」「象山」「三船山」の眺望が美しい。」と紹介されている。

前庭の一八六八歌の歌碑の横に「宮滝遺跡周辺図」なる説明案内碑があり「青根が峯」「象山」「三船山」が書かれている

 

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宮滝遺跡周辺図

コロナ対策上、同館は、土日祝日のみの開館となっている。休みで人っ子一人いない前庭から資料館横の小高いまでゆっくりと散歩させていただいた。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「はじめての万葉集 vol.28」 (奈良県HP)

★「はじめての万葉集 vol.33」 (奈良県HP)

★「吉野町HP」