万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その775)―吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上―万葉集 巻一 二七

●歌は、「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

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吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上万葉歌碑(天武天皇

●歌碑は、吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その768)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

               (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。

(注)良き人:今の貴人をいう。

 

日本書紀』には、天武八年五月五日に吉野宮へ行幸したこと、翌六日に、草壁(くさかべ)皇子・大津(おおつ)皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子四皇子と天智天皇の遺児である川島(かわしま)皇子・志貴(しき)皇子の二皇子ら六皇子に争いをせずお互いに助け合うと盟約させたこと、が記されている。

天武天皇にとって、吉野は壬申の乱の出発の地であり、それだけに感慨深い地であったのだろう。吉野でわずか40人ほどで挙兵をし、ひと月で天下を統一した壬申の乱という壮大なエネルギーは、万葉の人びとの記憶にとどめる必要性が求められたのに違いない。二七歌もそういった時代を背景に、天武天皇ならびに原点である「吉野」を尊厳化させるべく、天皇の歌として伝承されていったと考えられる。

万葉集は、ある意味、歌物語的要素がふんだんに盛り込まれているので、天武天皇を取り囲む劇場型の題材は、万葉びとを魅了していったに違いない。

こういった観点から、二五、二六歌をみてみよう。

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇(すめらみこと)の御製歌>である。

(注)壬申の乱直前の天智十年(671年)冬十月の吉野入りを回想した天武天皇の歌

 

◆三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎

               (天武天皇 巻一 二五)

 

≪書き下し≫み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間(ま)なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を

 

(訳)ここみ吉野の耳我の嶺に時を定めず雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。その雪の定めもないように、その雨の絶え間もないように、長の道中ずっと物思いに沈みながらやって来たのであった。ああ、その山道を。(同上)

(注)み【美】接頭語:名詞に付いて、美しい、りっぱな、などの意を添えたり、語調を整えたりするときに用いる。「み冬」「み山」「み雪」「み吉野」。(学研) 地名は、上代では、吉野・熊野・の越三つのみである。

(注)耳我の嶺:所在未詳(吉野山中の一峰?)

(注)くま【隈】名詞:曲がり角。曲がり目。(学研)

(注)隈(くま)もおちず:道の曲がり角ひとつ残さずずっと。

(注)思ひ:兄である天智天皇側と争わねばならない運命への深刻な思い

 

二六歌は、題詞は、「或本歌」<或本の歌>である。

 

三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎

               (天武天皇 巻一 二六)

 

≪書き下し≫み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間(ま)なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間(ま)なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

 

(訳)み吉野の耳我の山に、時となく雪は降るという。絶え間なく雨は降るという。その雪の時とてないように、その雨の絶え間もないように、長い道中ずっと物思いに沈みながらやって来た。ああ、その山道を。(同上)

(注)ときじくに【時じくに】分類連語:時期にかかわらず。いつでも。(学研)

(注)雪は降るといふ:ここは二六歌と違い伝聞形式になっている。二六歌が愛唱されているうちに変化したものか

 

左注は、「右句ゝ相換 因此重載焉」<右は句ゝ(くく)相換(あひかは)れり。 これに因(よ)りて重ねて載(の)す>である。

                           

次の歌は、二六歌とほとんど同一である。民謡風の歌であるが、これが宮廷での儀礼歌となり、いつしか天武天皇の吉野行の道歌として伝承されていった可能性が強いのである。

 

◆三吉野之 御金高尓 間無序 雨者落云 不時曽 雪者落云 其雨 無間如 彼雪 不時如 間不落 吾者曽戀 妹之正香尓

               (作者未詳 巻十三 三二九三)

 

≪書き下し≫み吉野の 御金(みかね)が岳(たけ)に 間(ま)なくぞ 雨は降るいふ 時(とき)じくぞ 雪は降るいふ その雨の 間(ま)なきがごと その雪の 時じきがごと 間(ま)もおちず 我(あ)れはぞ恋ふる 妹(いも)が直香(ただか)に

 

(訳)み吉野の御金が岳に、絶え間なく雨は降るという、休みなく雪は降るという。その雨の絶え間がないように、その雪の休みがないように、あいだもおかずに私は恋い焦がれてばかりいる。いとしいあの子その人に。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)ただか【直処・直香】名詞:その人自身。また、その人のようす。(学研)

 

 

 三二六〇歌も構文的には似ている。こちらもみてみよう。

 

◆小治田之 年魚道之水乎 問無曽 人者挹云 時自久曽 人者飲云 挹人之 無間之如 飲人之 不時之如 吾妹子尓 吾戀良久波 已時毛無

               (作者未詳 巻十三 三二六〇)

 

≪書き下し≫小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間(ま)なくぞ 人は汲(く)むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間(ま)なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子(わぎもこ)に 我(あ)が恋ふらくは やむ時もなし

 

(訳)小治田(をはりだ)の年魚(あゆ)道の湧き水、その水を、絶え間なく人は汲むという。時となく人は飲むという。汲む人の絶え間がないように、飲む人の休みがないように、いとしいあの子に私が恋い焦がれる苦しみは、とだえる時とてない(同上)

 

 このような例は、万葉集巻二の冒頭歌、八五から八八歌の四首は仁徳天皇の皇后である磐姫(いわのひめ)の歌として収録されている歌群である。同時に八九歌、九〇歌の類歌も収録していることは、民謡の伝誦の中から一つのストーリー性をもった歌群を収録している、あるいは、そう伝えられていたものと考えられる。

 このように万葉集では、歌物語的なところも多々あるのである。それはそれで万葉集の奥深さを演出しているといえなくはないのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)