万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その787)―兵庫県伊丹市 緑が丘公園―万葉集 巻七 一一四〇

●歌は、「しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りなくて」である。

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兵庫県伊丹市 緑が丘公園万葉歌碑(作者未詳)


 

●歌碑は、兵庫県伊丹市 緑が丘公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆志長鳥 居名野乎来者 有間山 夕霧立 宿者無而  <一本云 猪名乃浦廻乎 榜来者>

               (作者未詳 巻七 一一四〇)

 

≪書き下し≫しなが鳥(どり)猪名野(ゐなの)を来(く)れば有馬山(ありまやま)夕霧(ゆふぎり)立ちぬ宿(やど)りはなくて  <一本には「猪名の浦みを漕ぎ来れば」といふ>

 

(訳)猪名の野をはるばるやって来ると、有馬山に夕霧が立ちこめて来た。宿をとるところもないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)しながとり【息長鳥】分類枕詞:①鳥が「ゐならぶ」ことから地名「猪那(ゐな)」にかかる。②地名「安房(あは)」にかかる。かかる理由未詳。 ※息の長い鳥の意で、具体的な鳥名には諸説ある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)いなの〔ゐなの〕【猪名野】:兵庫県伊丹市から尼崎市にかけての猪名川沿いの地域。古来、名勝の地で、笹の名所。[歌枕](weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

(注)有間山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県神戸市の六甲山北側にある有馬温泉付近の山々。「有馬山」とも書く。(学研)

(注)やどり【宿り】名詞:①旅先で泊まること。宿泊。宿泊所。宿所。宿。②住まい。住居。特に、仮の住居にいうことが多い。③一時的にとどまること。また、その場所。 ※参考「宿り」は、住居をさす「やど」「すみか」とは異なり、旅先の・仮のの意を含んでいる。(学研)

 

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歌碑脇の説明碑

 緑が丘公園は、伊丹市内で最も古い公園で、広さ7.8ヘクタール。上池と下池がある。下池のほとりには「鴻臚館(こうろかん)」や伊丹市の国際友好都市である中国佛山市から贈られたあずまや、亭(ちん)「賞月亭(しょうげつてい)」がある。先達のブログ等から、「上池の南」、「桜の大木の下」のキーワードで散策。結局池は全周回る羽目に。伊丹市の公園管理関係部署に電話をしたりして漸く見つけることができた。7.8ヘクタールのピンポイント。これもまた楽しからずやである

 

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緑が丘公園 賞月亭

 

 歌にあった「有間山」を詠み込んだ大伴坂上郎女の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首幷短歌」<七年乙亥(きのとゐ)に、大伴坂上郎女、尼(あま)理願(りぐわん)の死去を悲嘆(かな)しびて作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)尼理願:新羅から渡来した尼

 

◆栲角乃 新羅國従 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡来座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鷄目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕来座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隠益去礼 将言為便 将為須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 吾泣涙 有間山 雲居軽引 雨尓零寸八

               (大伴坂上郎女 巻三 四六〇)

 

≪書き下し≫栲(たく)づのの 新羅(しらき)の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる 親族(うがら)兄弟(はらがら) なき国に 渡り来まして 大君(おほきみ)の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家(さといへ)は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保(さほ)の山辺(やまへ)に 泣く子なす 慕(した)ひ来まして 敷栲(しきたへ)の 家をも造り あらたまの 年の緒(を)長く 住まひつつ いまししものを 生ける者(もの) 死ぬといふことに 免(まぬか)れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間(あひだ)に 佐保川を 朝川(あさかは)渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺(やまへ)をさして 夕闇(ゆふやみ)と 隠(かく)りましぬれ 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに た廻(もとほ)り ただひとりして 白栲(しろたへ)の 衣袖(ころもで)干(ほ)さず 嘆きつつ 我(あ)が泣く涙 有間山(ありまやま) 雲居(くもゐ)たなびき 雨に降りきや

 

(訳)遠いはるかな新羅の国から、日本(やまと)はよき国との人の噂をなるほどとお聞きになって、安否を問うてよこす親族縁者もいないこの国に渡ってこられ、大君のお治めになるわが国には、都にはびっしり里や家はたくさんあるのに、いったいどのように思われたのか、何のゆかりもないここ佐保の山辺に、親を慕うて泣く子のようにやってこられて、家まで造って年月長く住みついていらっしゃったのに、生ある者はかならず死ぬという定めから逃(のが)れることはできないものだから、頼りにしていた人がみんな旅に出て留守のあいだに、朝まだ早い佐保川を渡り、春日野を背後に見ながら、山辺を目指して夕闇に消え入るように隠れてしまわれた、それで、何を何と言ってよいのやら、何を何としたらよいのやらわけもわからぬままに、おろおろ往(い)ったり来たりしてたった一人で、白い喪服の乾く間もなく、ひたすら嘆きどおしに私が流す涙、この涙は、あなたさまのおられる有馬山に雲となってたなびき、雨となって降ったことでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たくづのの【栲綱の】分類枕詞:栲(こうぞ)の繊維で作った綱は色が白いことから「白」に、また、その音を含む「新羅(しらぎ)」にかかる。(学研)

(注)とひさく【問ひ放く】自動詞:遠くから言葉をかける。問いを発する。(学研)

(注)うちひさす【打ち日さす】分類枕詞:日の光が輝く意から「宮」「都」にかかる。(学研)

(注)しみみに【繁みみに・茂みみに】副詞:すきまなくびっしりと。「しみに」とも。 ※「しみしみに」の変化した語。(学研)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。 ここでは、「家」に懸っている。家を寝具に見立てた。

(注)有間山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県神戸市の六甲山北側にある有馬温泉付近の山々。「有馬山」とも書く。(学研)

 

「朝日日本歴史人物事典」によると、「理願(読み)りがん」について次のように書かれている。「没年:天平7(735) 生年:生年不詳

新羅人の尼。新羅から日本に渡って活動し,日本で没した。『万葉集』巻3(460,461)に,彼女の死に当たって大伴坂上郎女 が作った挽歌2首が収められており,その左注から彼女についてわずかに知ることができる。それによれば,理願は渡日,帰化して,大伴安麻呂の佐保の宅に寄住していたという。安麻呂の死(和銅7〈714〉)ののちも同宅で安麻呂の妻の石川命婦や娘の坂上郎女,息子の旅人らのもとで暮らしたらしい。天平7年,にわかに病気となり死去した。坂上郎女の歌は,温泉で療養中の石川命婦に彼女の死を告げたもの。」

 

坂上郎女の母、石川郎女が、病気療養のため有馬に行っていたので、坂上郎女が一人で尼理願の葬儀を取り仕切り、悲しみながらの報告である。

 

 万葉の時代、畿内でも「有馬山(ありまやま)夕霧(ゆふぎり)立ちぬ宿(やど)りはなくて」と不安に駆られる時代に、尼として、新羅から日本にわたって来て活動する、使命感と精神力には脱帽する。

 

 家持と所縁があるとはいえ、このような歌も万葉集に収録するといった万葉集の包容力にも魅せられてしまう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

★「伊丹市HP」