万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その793)―住吉区東粉浜 南海本線粉浜駅前―万葉集 巻六 九九七 

●歌は、「住吉の粉浜のしじみ開けもみず隠りてにみや恋ひわたりなむ」

 

f:id:tom101010:20201027190717j:plain

住吉区東粉浜 南海本線粉浜駅前万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、住吉区東粉浜 南海本線粉浜駅前にある。

 

●歌をみていこう

  題詞は、「春三月幸于難波宮之時歌六首」<春の三月に、難波(なには)の宮に幸(いでま)す時の歌六首>である。

(注)幸す:ここでは聖武天皇行幸

 

◆住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南

               (作者未詳 巻六 九九七)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の粉浜(こはま)のしじみ開(あ)けも見ず隠(こも)りてのみや恋ひわたりなむ

 

(訳)住吉の粉浜の蜆(しじみ)が蓋(ふた)を閉じているように、私は、胸の思いもうちあけることもせず、じっと心のうちに籠(こ)めたまま、思いつづけることであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注) 住吉 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の大阪市住吉区を中心とする一帯。海浜の景勝の地で、松の名所として有名。この地に鎮座する住吉神社の祭神は、海上交通の守護神として、また、和歌の神としても信仰される。古くからの港で、海上交通の要地でもあった。 ※参考 元来の地名は「すみのえ」であるが、「住吉」と当てた表記から「すみよし」の読みが生まれた。両者とも用いられるが、平安時代以降は次第に「すみよし」が優勢となる。歌では、「波」「寄る」「松(=「待つ」とかける)」「忘れ草」など、また、「住み良し(=「住吉(すみよし)」にかける)」が詠み込まれる例が多い。

(注)粉浜:大阪市住吉公園の北、帝塚山の西。当時は海岸。

(注)上二句は序。「開(あ)けも見ず隠(こも)りてのみ」を起こす。

 

左注は「右一首作者未詳」<右の一首は、作者いまだ詳(つばひ)らかにあらず。>である。

 

 他の五首もみてみよう。

 

◆如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛

                (船王 巻六 九九八)

 

≪書き下し≫眉(まよ)のごと雲居(くもゐ)に見ゆる阿波(あは)の山懸(か)けて漕(こ)ぐ舟泊(とま)り知らずも

 

(訳)眉のように雲居はるかに横たわる阿波(あわ)の山、その山を目指して漕いで行く舟は、さて今夜、どこに泊まることやら。(同上)

(注)ごと【如】:①…のように。…のよう。▽連用形「ごとく」と同じ用法。②…のようだ。▽終止形「ごとし」と同じ用法。 ※参考 (1)活用語の連体形や、助詞「の」「が」に付く。(2)上代から中古末ごろまで和文系の文章に用いられた。⇒ごとし(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かく【懸く・掛く】他動詞:目標にする。目ざす。(学研)

 

左注は、「右一首船王作」<右の一首は船王(ふなのおほきみ)が作>である。

(注)船王(ふなのおほきみ):舎人皇子の子。淳仁天皇の兄。

 

 

◆従千沼廻 雨曽零来 四八津之白水郎 綱手綱乾有 沾将堪香聞

               (守部王 巻六 九九九)

 

≪書き下し≫茅渟(ちぬ)みより雨ぞ降り来(く)る四極(しはつ)の海人(あま)網(あみ)干(ほ)したり濡(ぬ)れもあへむかも

 

(訳)茅渟(ちぬ)のあたりから雨が降って来る。なのに、四極(しはつ)の海人は網を干したままだ。濡れるのに堪えられないのではなかろうか。

(注)ちぬ【茅渟】:和泉(いずみ)国の沿岸の古称。現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。(weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

(注)-み【回・廻・曲】接尾語:〔地形を表す名詞に付いて〕…の湾曲した所。…のまわり。「磯み」「浦み」「島み」「裾(すそ)み(=山の裾のまわり)」(学研)

(注)四極:大阪市住吉区の、当時の海岸にあった地名か。

(注)あふ【敢ふ】自動詞:堪える。我慢する。持ちこたえる。(学研)

(注)かも 終助詞:《接続》体言や活用語の連体形などに付く。①〔感動・詠嘆〕…ことよ。…だなあ。②〔詠嘆を含んだ疑問〕…かなあ。③〔詠嘆を含んだ反語〕…だろうか、いや…ではない。▽形式名詞「もの」に付いた「ものかも」、助動詞「む」の已然形「め」に付いた「めかも」の形で。④〔助動詞「ず」の連体形「ぬ」に付いた「ぬかも」の形で、願望〕…てほしいなあ。…ないかなあ。 ※参考 上代に用いられ、中古以降は「かな」。(学研)

 

左注は、「右一首遊覧住吉濱還宮之時道上守部王應 詔作歌」<右の一首は、住吉(すみのえ)の浜に遊覧し、宮に還ります時に、道の上(へ)にして、守部王(もりべのおほきみ)、詔(みことのり)に応(こた)へて作る歌>である。

(注)宮:ここでは難波の宮

(注)守部王(もりべのおほきみ):舎人皇子の子。船王の弟。

 

 

◆兒等之有者 二人将聞乎 奥渚尓 鳴成多頭乃 暁之聲

               (守部王 巻六 一〇〇〇)

 

≪書き下し≫子らしあらばふたり聞かむを沖つ洲(す)に鳴くなる鶴(たづ)の暁(あかとき)し声

 

(訳)あの子がもしここにいたら、二人して聞くことができるように。はるか沖の洲で鳴き立てている鶴の、明け方の声を。(同上)

(注)こら【子等・児等】名詞:①子供たち。◇「ら」は複数を表す接尾語。②あなた。娘さん。◇人、特に若い女性を親しんで呼ぶ語。「ら」は親愛の気持ちを表す接尾語。(学研) ここでは②の意

 

左注は、「右一首守部王作」<右の一首は守部王が作>である。

 

 

◆大夫者 御獦尓立之 未通女等者 赤裳須素引 清濱備乎

               (山部赤人 巻六 一〇〇一)

 

≪書き下し≫ますらをは御狩(みかり)に立たし娘子(をとめ)らは赤裳(あかも)裾(すそ)引(び)く清き浜(はま)びを

 

(訳)ますらおたちは御狩の場に立たれ、娘子(おとめ)たちは赤裳の裾を引きながら往き来している。清らかな浜辺を。(同上)

(注)御狩:ここは潮干狩の意。

 

左注は、「右一首山部宿祢赤人作」<右の一首は、山部宿禰赤人が作>である。

 

 

◆馬之歩  押止駐余  住吉之  岸乃黄土  尓保比而将去

               (安倍豊継 巻六 一〇〇二)

 

≪書き下し≫馬の歩(あゆ)み抑(おさ)へ留(とど)めよ住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)ににほひて行かむ 

 

(訳)口を押えて馬の歩みを止めなさい。ここ住吉の岸の埴土(はにつち)に、存分に染まって行こうではないか。(同上)

(注)はにふ【埴生】名詞:①「埴(はに)」のある土地。また、「埴」。②「埴生の小屋(をや)」の略。(学研)

(注)はに【埴】名詞:赤黄色の粘土。瓦(かわら)や陶器の原料にしたり、衣にすりつけて模様を表したりする。(学研)

 

左注は、「右一首安倍朝臣豊継作」<右の一首は、安倍朝臣豊継(あへのあそみとよつぐ)が作>である。

 

 上記(注)の「埴生の小屋」を詠んだ歌として、「大阪府富田林市 彼方小学校にあった歌碑の歌「彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹」がある。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

また題詞「埴(はに)に寄す」の歌「大和の宇陀の真赤土のさ丹付かばそこもか人の我を言なさむ」がある。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その381)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

        

 

 

10月2日の万葉歌碑めぐりは、住吉公園周辺である。

コースは、粉浜(こはま)駅前➡住吉(すみよし)大社➡住吉公園➡千躰(せんたい)細江川➡安立(あんりゅう)霰松原(あられまつばら)公園➡住之江(すみのえ)駅である。

これまでのドライブとは異なり、電車で行くことにした。コロナ禍で外出は極力控えて来たので、電車に乗るのは何か月ぶりだろう。幸い日中でもあり、車内ではソーシャルディスタンスも十分にとれていた。

難波駅和歌山市駅行の普通電車に乗り、最初の目的地粉浜駅で降りた。駅周辺をストリートビューを使って調べていたので歌碑の場所はすぐにわかった。そこからは、歩きである。

じっくりと街中を観察しながら歩いた。車では味わえない醍醐味である。

歩数計は、10,079歩になっていた。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 小学館デジタル大辞泉」