●歌は、「草枕旅行く君と知らませば岸の埴生ににほはさましを」である。
●歌をみていこう。
◆草枕 客去君跡 知麻世婆 岸之埴布尓 仁寶播散麻思呼
(清江娘子 巻一 六九)
≪書き下し≫草枕旅行く君と知らませば岸の埴生(はにふ)ににほはさましを
(訳)草を枕の旅のお方と知っていたなら、この住吉の岸の埴土(はにつち)で衣を染めてさしあげるのでしたのに(住吉に留まって下さるお方とばかり思っていたので、染めてさしあげられませんでした)(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)にほはす【匂はす】:他動詞:①美しく染める。美しく色づける。②香りを漂わせる。薫らせる。③それとなく知らせる。ほのめかす。(学研) ここでは①の意
左注は、「右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳」<右の一首は清江娘子(すみのえのをとめ)、長皇子(ながのみこ)に進(たてまつ)る 姓氏未詳>である。
(注)清江娘子:住吉の遊行女婦と思われる。
六六から六九歌の題詞は、「太上天皇幸于難波宮時歌」<太上天皇(おほきすめらみこと)、難波の宮に幸(いでま)す時の歌>である。
題詞が、「太上天皇幸于難波宮時歌」であり、清江娘子の六九歌の左注は、「右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳」とあり、「進長皇子」が記されている。しかし、六六から六八歌の左注は「右一首〇〇〇」と作者名のみであり、おそらく、六九歌の左注は、「右一首清江娘子姓氏未詳」と「進長皇子」で太上天皇が難波の宮に行幸された時の宴席の歌であろうから、「進長皇子」は、六六歌から六九歌四首を対象としている方が、しっくりくるように思える。
万葉集の宴席の歌において、娘子の歌も収録されていることのフラットな考え方に万葉集の懐の深さを感じさせるものがある。
たとえ娘子の歌のみ、長皇子に進(たてまつ)られてから万葉集編者に何らかの形で渡った、バーチャルな宴会歌群としても万葉集にあっては、フラットな考え方となっている。
他の三首もみてみよう。
◆大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
(置始東人 巻一 六六)
≪書き下し≫大伴(おほとも)の高石たかし)の浜の松が根を枕(まくら)き寝(ぬ)れど家(いへ)し偲(しの)はゆ
(訳)大伴の高石の浜の根、見事なこの松の根を枕に寝ていても、やはり家のことが偲ばれてならぬ。(同上)
(注)大伴の(読み)おほともの:[枕]大伴(現在の大阪辺りをさす地名)にある港「御津(みつ)」と同音の「見つ」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉) ここは、大伴にある高石の浜、の意であろう。
(注)高石の浜:堺市・高石市あたりの海岸 ※南海電鉄の路線に高師浜線があり、羽衣駅から高師浜駅まで運行している。「高師」が使われている。
左注は、「右一首置始東人」<右の一首は置始東人(おきそめのあづまひと)
◆旅尓之而 物戀之伎尓 鶴之鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思
(高安大嶋 巻一 六七)
≪書き下し≫旅にしてもの恋(こほ)しきに鶴(たづ)が音(ね)も聞こえずありせば恋ひて死なまし
(訳)旅先にあってもの恋しい時に、鶴の声すら聞こえなかったら、家恋しさのあまり死んでしまうだろう。(同上)
左注は、「右一首高安大嶋」<右の一首は高安大嶋(たかやすのおほしま)>である。
◆大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉
(身人部王 巻一 六八)
≪書き下し≫大伴の御津の浜にある忘れ貝(がひ)家にある妹(いも)を忘れて思へや
(訳)大伴の御津の浜にある忘れ貝、その忘れ貝の名のように、家に待つあの人のことを何で忘れたりしようか。(同上)
(注)御津 分類地名:今の大阪市にあった港。難波(なにわ)の御津、大伴(おおとも)の御津ともいわれた。(学研)
左注は、「右一首身人部王」<右の一首は身人部王(むとべのおほきみ)
六八歌に詠われている、「忘れ貝」は万葉集では五首、さらに「恋忘れ貝」として五首収録されている。これらの歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その740)」で紹介している。 ➡
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」