万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その794-5)―住吉区住吉 住吉大社反り橋西詰め北―万葉集 巻六 一〇〇二

●歌は、「馬の歩み抑え留めよ住吉の岸の埴生ににほいて行かむ」である。

 

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住吉大社反り橋西詰め北万葉歌碑<角柱碑裏面上部左から2番目>(安倍豊継)

●歌碑は、住吉区住吉 住吉大社反り橋西詰め北にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その793)」で、題詞「春三月幸于難波宮之時歌六首」<春の三月に、難波(なには)の宮に幸(いでま)す時の歌六首>のうちの一首として紹介している。

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◆馬之歩  押止駐余  住吉之  岸乃黄土  尓保比而将去

               (安倍豊継 巻六 一〇〇二)

 

≪書き下し≫馬の歩(あゆ)み抑(おさ)へ留(とど)めよ住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)ににほひて行かむ 

 

(訳)口を押えて馬の歩みを止めなさい。ここ住吉の岸の埴土(はにつち)に、存分に染まって行こうではないか。(同上)

(注)はにふ【埴生】名詞:①「埴(はに)」のある土地。また、「埴」。②「埴生の小屋(をや)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)はに【埴】名詞:赤黄色の粘土。瓦(かわら)や陶器の原料にしたり、衣にすりつけて模様を表したりする。(学研)

 

左注は、「右一首安倍朝臣豊継作」<右の一首は、安倍朝臣豊継(あへのあそみとよつぐ)が作>である。

 

 「馬」については、万葉集では八五首ほど詠まれている。比較的身近な動物であったようである。

 馬をめぐる、万葉の時代の夫婦愛を詠んだ次の歌をみてみよう。

 

 ここでは、長歌だけとりあげる。

 

◆次嶺経 山背道乎 人都末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 毎見 哭耳之所泣 曽許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背

               (作者未詳 巻十三 三三一四)

 

≪書き下し≫つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 人夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ そこ思(おも)ふに 心し痛し たらちねの 母が形見(かたみ)と 我(わ)が持てる まそみ鏡に 蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ) 負(お)ひ並(な)め持ちて 馬買(か)へ我(わ)が背

 

(訳)つぎふね山背道 山背へ行くその道を、よその夫は馬でさっさと行くのに、私の夫はとぼとぼと足で行くので、そのさまを見るたびに泣けてくる。そのことを思うと心が痛む。母さんの形見として私がたいせつにしている、まそ鏡に蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ)、これを品々に添えて負い持って行き、馬を買って下さい。あなた。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背」

何という夫思いの妻であろうか。

 反歌の夫の気持ちも胸打つものがある

 万葉の夫婦愛も時間を超え感動を与えてくれる。

 

この歌ならびに反歌三首は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その326)」で紹介している。 ➡ 

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 馬との付き合いという面で少し調べてみよう。

 まず思い浮かぶのが、馬形埴輪である。

東京国立博物館HPのブログ「特集陳列「動物埴輪の世界」の見方7─馬形埴輪2」から抜粋させていただく。

「人と馬の関係は『乗馬』に象徴されているともいえますが、その起源は西アジアのイラン地方で始まったとされ、次第に人間が乗る『鞍』と馬をコントロールする『手綱(たづな)や轡(くつわ)』が整備されました。」

 「中国では、殷代(BC.1600~1100年)後期に(ローマの戦車によく似た)2輪車の戦車の使用が始まり、西周(BC.1100~756年)末期の紀元前8世紀頃から青銅や鉄製の轡がみられます。」

「4~5世紀には中国東北地方や朝鮮半島に馬の飼育を伴って拡大し、やがて日本列島にも伝えられました。」

「日本列島の馬具は、弥生時代中・後期の西北九州地方で(“王墓”とも呼ばれる)多数の副葬品をもつ有力な甕棺墓などから出土する稀少な輸入品の馬鐸や車馬具を除けば、古墳時代の4世紀末頃から古墳の副葬品として現われ、5~6世紀に広く普及しました。

このように、馬は古墳時代の途中から、新来の“最先端の乗り物”として登場したことが判ります。」

 「日本列島の馬形埴輪には耕作・牽引などに適した馬具は付けられていませんし、ましてや大陸の騎兵にみられるような激しい戦闘に耐えるような装備はほとんど見当たりません。

(中略)大多数の馬形埴輪からは、少なくとも古墳時代の馬が農耕や戦闘に従事していた様子をうかがうことはできません。」

「埴輪に象(かたどら)れた馬は乗馬に最大の『関心』があったようです。(中略)それも金銀に彩られたさまざまな馬具を鏤(ちりば)めた豪華な“いでたち”です。(中略)おそらく当時の人々も、古墳に樹(た)てられた馬形埴輪を見ることによって、葬られた人物が(最先端の…)豪華な“乗り物”を所有することができた社会的地位の高い人物であることを容易に想像できたことでしょう。」

馬は高嶺の花であった。

 

奈良文化財研究所HPに「13)馬を乗りこなす  朝鮮半島から大量輸入」というタイトルに次のように記述されている。参考になるので引用させていただく。

 「皆さんは平城宮跡資料館に行ったことがありますか。資料館の下からは、馬を管理する『馬寮(めりょう)』という役所の跡が発掘され、馬小屋や馬の水浴び場の痕跡が見つかっています。

 奈良時代、馬は移動や運送に利用されましたが、最も重視されていたのは軍事力でした。このため、各地に国営の牧場が設けられ、そこで育った馬が馬寮に送られてきたのです。

 ところで馬は、元もと日本列島にいた動物ではありません。5世紀頃に大陸からやってきました。といっても、海で周りを囲まれた日本列島に馬が泳いできたわけではありません。

 かつては、この頃に大陸から騎馬民族が大挙して侵入し、列島を征服したと考えられたことがありました。しかし、いくら発掘しても、戦いや征服の証拠は確認できません。どうやら、この時期、馬が積極的に輸入され、馬の飼育に慣れた渡来人とともに大量の馬が船で海を渡ってきたようです。

 当時の豪族たちが馬を欲し、朝鮮半島南部の国々が馬の輸出に協力した、というのが実状だったようです。渡来人のおかげもあってか、日本列島の人々が馬をうまく乗りこなすまでに、さほど時間はかからなかったようです。」

 

 万葉集には「馬並めて」という表現がよく出て来る。「馬を勢揃いさせみんなで」と意味合いで、吉野(一一〇四、一七二〇歌)、住吉(一一四八歌)、渋谿<富山県高岡>(三九五四歌)等へグループで出かけていたようである。一八五九歌のように、「馬舐めて多賀の山辺を・・・」といった「多賀」にかかる枕詞の使い方もある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「特集陳列「動物埴輪の世界」の見方7─馬形埴輪2」 (東京国立博物館HP)

★「奈良文化財研究所HP」