●歌は、「住吉の得名津に立ちて見渡せば武庫の泊りゆ出づる船人」である。
●歌をみていこう。
◆墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人
(高市黒人 巻三 二八三)
<書き下し>住吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見わたせば武庫(むこ)の泊(とま)りゆ出(い)づる船人(ふなびと)
(訳)住吉の得名津に立ってから見わたすと、海のかなた、武庫の泊りからさかんに漕ぎ出す船人が見える。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)武庫の泊り:武庫川河口の船着き場。難波津を出て最初に船を寄せる地。
「得名津」については、大阪市教育委員会の「遠里小野遺跡発掘(OR07-2次)調査資料」に、“榎津(えなつ)”と呼ばれる港があり、それは現在、新大和川に流路を取り込まれている旧狭間(はざま)川を遡った地にあったと考えられています。当地は旧狭間川右岸、ひいては古代港“榎津”の入口に立地する可能性が高いといえます。また東方には5~6世紀には大和朝廷の直轄地であった『依網屯倉(よさみのみやけ)』の推定地があり、人や物資の輸送面で“榎津”の港との関係も想定されます」と書かれている。
住吉大社の南約1kmの所を大和川が流れていることから今の住之江から南の方に位置していたと考えられる。
万葉集巻十五の巻頭歌に「得名津」から眺めた「武庫の浦の入江」が詠まれている。
こちらをみてみよう。
◆武庫能浦乃 伊里江能渚鳥 羽具久毛流 伎美乎波奈礼弖 古非尓之奴倍之
(作者未詳 巻十五 三五七八)
≪書き下し≫武庫(むこ)の浦の入江(いりえ)の洲鳥(すどり)羽(は)ぐくもる君を離(はな)れて恋(こひ)に死ぬべし
(訳)武庫の浦の入江の洲に巣くう鳥、その水鳥が親鳥の羽に包まれているように、大事にいたわって下さったあなた、ああ、あなたから引き離されたら、私は苦しさのあまり死んでしまうでしょう。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)武庫の浦:兵庫県武庫川河口付近。難波津を出てた遣新羅使人たちの最初の宿泊地らしい。
(注)上二句は序。「羽(は)ぐくもる」を起こす
(注)はぐくもる【羽ぐくもる】[動]:ひなが親鳥に羽で包まれる。たいせつに育てられる。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
三五七八から三七二二歌の題詞は、「遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思幷當所誦之古歌」<遣新羅使人等(けんしらきしじんら)、別れを悲しびて贈答(ざうたふ)し、また海路(かいろ)にして情(こころ)を慟(いた)みして思ひを陳(の)べ、幷(あは)せて所に当りて誦(うた)ふ古歌>である。
巻頭歌から三五八八歌までの十一首は贈答歌になっている。
三五七八歌は妻からであり三五七九歌は夫からという構成である。三五七九歌もみてみよ。
◆大船尓 伊母能流母能尓 安良麻勢婆 羽具久美母知弖 由可麻之母能乎
(作者未詳 巻十五 三五七九)
≪書き下し≫大船(おほぶね)に妹(いも)乗るものにあらませば羽(は)ぐくみ持ちて行かましものを
(訳)大船に女であるあなたも乗っていけるものなら、ほんとうに羽ぐくみ抱えて行きもしように。(同上)
「羽ぐくもる」「羽ぐくむ」を中核に、まさに「別れを悲しびて」展開している歌である。淡々とした響きであるが故に、悲しみの心情がマグマのようになっているのが感じられるのである。
もう一首、山辺赤人が詠んだ歌(三五八歌)をみてみよう。
題詞は、「山辺宿祢赤人歌六首」<山辺宿禰赤人が歌六首>である。
この六首すべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その614)」で紹介している。
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◆武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
(山部赤人 巻三 三五八)
≪書き下し≫武庫(むこ)の浦を漕ぎ廻(み)る小舟(をぶね)粟島(あはしま)をそがひに見つつ羨(とも)しき小舟(をぶね)
(訳)武庫の浦を漕ぎめぐって行く小船よ。妻に逢えるという粟島をうしろに見ながら都の方へ漕いで行く、ほんとうに羨ましい小舟よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)武庫の浦:武庫川の河口付近
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「遠里小野遺跡発掘(OR07-2次)調査資料」 (大阪市教育委員会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」