●歌は、「茅渟みより雨ぞ降り来る四極の海人網干したり濡もあへむかも」である。
●歌をみていこう。
◆従千沼廻 雨曽零来 四八津之白水郎 綱手綱乾有 沾将堪香聞
(守部王 巻六 九九九)
≪書き下し≫茅渟(ちぬ)みより雨ぞ降り来(く)る四極(しはつ)の海人(あま)網(あみ)干(ほ)したり濡(ぬ)れもあへむかも
(訳)茅渟(ちぬ)のあたりから雨が降って来る。なのに、四極(しはつ)の海人は網を干したままだ。濡れるのに堪えられないのではなかろうか。
(注)ちぬ【茅渟】:和泉(いずみ)国の沿岸の古称。現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯。(weblio辞書 小学館デジタル大辞泉)
(注)-み【回・廻・曲】接尾語:〔地形を表す名詞に付いて〕…の湾曲した所。…のまわり。「磯み」「浦み」「島み」「裾(すそ)み(=山の裾のまわり)」(学研)
(注)あま【海人・海士・蜑】名詞:①海で魚や貝を採ったり、塩を作ることを仕事とする人。漁師。漁夫。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)あふ【敢ふ】自動詞:堪える。我慢する。持ちこたえる。(学研)
(注)かも 終助詞:《接続》体言や活用語の連体形などに付く。①〔感動・詠嘆〕…ことよ。…だなあ。②〔詠嘆を含んだ疑問〕…かなあ。③〔詠嘆を含んだ反語〕…だろうか、いや…ではない。▽形式名詞「もの」に付いた「ものかも」、助動詞「む」の已然形「め」に付いた「めかも」の形で。④〔助動詞「ず」の連体形「ぬ」に付いた「ぬかも」の形で、願望〕…てほしいなあ。…ないかなあ。 ※参考 上代に用いられ、中古以降は「かな」。(学研)
左注は、「右一首遊覧住吉濱還宮之時道上守部王應 詔作歌」<右の一首は、住吉(すみのえ)の浜に遊覧し、宮に還ります時に、道の上(へ)にして、守部王(もりべのおほきみ)、詔(みことのり)に応(こた)へて作る歌>である。
(注)宮:ここでは難波の宮
(注)守部王(もりべのおほきみ):舎人皇子の子。船王の弟。
住吉は、行幸の地であると賞賛し、万葉当時の漁労生活の一端をうかがい知ることのできる歌群が収録されている。
この歌群をみてみよう
題詞は「角麿歌四首」<角麻呂(つのまろ)が歌四首>である。
(注)角麻呂:伝未詳
◆久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳
(角麻呂 巻三 二九二)
≪書き下し≫ひさかたの天(あま)の探女(さぐめ)が岩船(いはふね)の泊(は)てし高津(たかつ)はあせにけるかも
(訳)その昔、天の探女が天降(あまくだ)った岩船の泊まった高津は、今やまったく浅くなってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)あまのさぐめ【天探女】:天照大神(あまてらすおおみかみ)の命で天稚彦(あめのわかひこ)の問責に来た雉(きじ)を、天稚彦に射殺させた邪心の女神。後世の「あまのじゃく」はこの女神のことともいう。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)高津:大阪市中央区法円坂あたり。逸文摂津風土記に、天稚彦が天降った時に供奉した天の探女の「岩船」(神の乗り物)が泊まったところを「高津」と名付けたという。
◆塩干乃 三津之海女乃 久具都持 玉藻将苅 率行見
(角麻呂 巻三 二九三)
≪書き下し≫潮干(しほひ)の御津(みつ)の海女(あまめ)のくぐつ持ち玉藻(たまも)刈るらむいざ行きて見む
(訳)潮の引いた難波(なにわ)の御津の海女たちが、くぐつを持って今頃玉藻を刈っている最中であろう。さあ、行って見ようではないか。(同上)
(注)くぐつ【裹】名詞:①海辺に生える植物「莎草(くぐ)」を編んで作った手提げ袋。
②わらや糸などで網のように編んだ手提げ袋。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
◆風乎疾 奥津白波 高有之 海人釣船 濱眷奴
(角麻呂 巻三 二九四)
≪書き下し≫風をいたみ沖つ白波(しらなみ)高からし海人(あま)の釣舟(つりぶね)浜に帰りぬ
(訳)風が激しいので沖の白波が高く立っているらしい。海人の釣り舟はみな浜に帰って来た。(同上)。
◆清江乃 木笶松原 遠神 我王之 幸行處
(角麻呂 巻三 二九五)
≪書き下し≫住吉(すみのえ)の野木の松原遠(とほ)つ神(かみ)我が大君(おほきみ)の幸(いでま)しところ。
(訳)住吉(すみのへ)の野木の松原は、遠くはるかな天つ神の血を承(う)ける聖なるわれらが大君の行幸された由緒深き所なのだ。
(注)とほつかみ【遠つ神】分類枕詞:神代から続く高貴な方の意から「大君」にかかる。(学研)
万葉集の海漁に関する歌からも当時の漁労生活がうかがい知れるのである。
上記の「海人の釣舟」や九三八歌(山部赤人)の「鮪(しび)釣る」で釣漁がおこなわれていた。また二三八歌(長忌寸意吉麻呂)の「網引(あびき)すと網子(あみご)ととのふる海人の呼び声」からは、引き網漁もあった。四二一八歌(大伴家持)の「鮪(しび)突くと海人の燭(とも)せる漁(いざ)り火の」から突漁も行われていたのである。
山上憶良の「沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)」に「漁夫・潜女、おのもおのも勤むるところあり、男は手に竹竿(さを)を把(と)りてよく波浪(なみ)の上に釣り、女は腰に鑿籠(のみこ)を帯びて、潜(かづ)ぎて深潭(ふち)の底に採る」とあり、海人、海女の様子が良く分かる。(憶良の言わんとすることはここでは触れない)
海人は製塩も生業にしていた。九三五歌(笠金村)の「朝なぎに玉藻刈りつつ夕なぎに藻塩焼きつつ海人娘子」から読み取れるのである。
日本は海洋国であるから、各地の海人・海女の活躍ぶりは、「伊勢の海女(二七九八歌)」、「志摩の海人(一〇三三歌)、「能登の海に釣りする海人(三一六九歌)」、「野島の海人(九三四歌)」などからうかがい知れるのである。
(注)沈痾自哀文(ちんあじあいぶん):病に沈み自ら悲しむ文。
「沈痾自哀文」と「俗道(ぞくだう)の仮合即離(けがふそくり)し、去りやすく留(とど)みかたきことを悲歎(かな)しぶる詩一首 幷(あは)せて序」と「老身に病を重ね、経年(けいねん)辛苦(しんく)し、児等(こら)を思ふに及(いた)る歌七首 長一首 短六首」(八九七から九〇三歌)の三部作は山上憶良七四年の生涯の総決算をなす作品と言われている。
このうち、八九七から九〇三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その44)」で紹介している。(初期のブログであるので、朝食の写真も掲載しているのでご容赦下さい)
➡ こちら44
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」